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難解で誤解を招きやすい箇所ですが、イエス様は、決してこの不正な管理人の行った詐欺的行為そのもの、不正そのものをほめたり、勧めたりしているのではありません。誉められた点は「抜け目なく行ったこと」、「抜け目ないやり方」なのです。「抜け目なさ」の原語(froni,mwj−フロニーモス)は洞察力、思慮深さ、賢さを意味しています。(phronimos (fron'-ee-mos)=thoughtful, i.e. sagacious or discreet by “PC Study Bible”) そして、誉められた理由は、不正が原因ですが(やったことは悪いけれど)、自分の状況を考え、自分の困難な将来を見据えて、何とか助かりたいと、知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って(行動して)備えをした賢さで、それをほめられたのです。 この管理人は自分をピンチから救い出すことにおいて、任されていた「お金」を十分活用したのです。あと少しでクビになる、しかも転職は難しい、どうするか。そこで彼は落胆し、絶望し、諦めるのではなく、わずかに残された時間をボヤボヤせず、必死になって次のこと考え、何とかして自分を救おうとしました。残された僅かの時間と機会を有効に使って、次の人生のための備えをした賢さ、それを主人は褒めたのです。 主イエス様は、ご自分の弟子たちも、霊的な意味において、そうであってほしいと思われました。 私たちも、未来に対する備え、肉体が滅んだ死後、永遠の天国に入るための用意が必要です「主イエスを自分の罪と裁きからの救い主と信じ、受け入れなさい。そうすれば救われます」と聖書は約束しています。 これが、このたとえの中心的な第一のこと。第二は、主イエスは、お金に使われることなくお金を有益に用いる、生きた用い方、全能の神の栄光を表す用い方をする人間になりなさいと教えられました。この「不正な管理人」はお金に使われるのではなく、自分のために有効に使う知恵をもっていたのです。それは友を作るということでした。ルカによる福音書15章11節以下にある放蕩息子のように、お金がなくなった途端に、見向きもしてくれない友達などではなく、自分が職を失い、窮地に陥った時、「わたしのところに来なさい」と言ってくれる友達のことです。そのような友達を得るために、不正な管理人は、負債を少しずつ免除し、彼らの人生の重荷を軽くしてやり、彼らを助け、彼らに感謝される人間となったのでした。そして、9節で主イエスが言われている真理(奥義)は、もっと凄いものです。私たちが天国に行ったら、私たちが施したり、救いに導いた人々が待っていて、私たちに感謝し、あなたを愛してくれるような生き方をしなさい、というものです。言い換えれば、宣教し、証し、奉仕し、施しや助けを通して、神さまに救われる人が起こされるのなら、自分が天に帰るときに、その友達が神さまとともに永遠の住まいに自分を迎えてくれる、そのためにこの世のお金とか時間とか賜物をもっと賢く活用しましょう、と言われているのです。この世の富を用いて作った複数の友達が、あなたが世を去るとき、永遠の御国、天国で迎えてくれると。これこそが富の最もよい使い方であると。 さて、神の目に忠実な人とは誰でしょうか。それは、賢さと思慮深さをもって、与えられているお金や財産、時間、賜物・能力、人脈を精一杯活用して天国で私たちを迎える友を作っていく人のことです。 クリスチャンは神から様々なもの「お金、財産、時間、賜物・能力、人脈、所有物、そして福音」を預けられた『神の管理者』なのです。(神が造られた世界を正しく管理する管理者でもある。)それらを『どう利用したか』ということが問われる時が来ます。永遠の時に、多くの友を持つことの出来る報いを自分のために、抜けめなく、この今から計画を立てて実行していく者とならせて頂きたいものです。 「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」 (テモテへの手紙一6章17〜19節 新共同訳聖書 日本聖書協会) |
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