日本基督教団 西神戸教会月報
2009年7月号

                   
  信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。

                             《使徒言行録19章11〜20節》 

  私たちの信仰は、肝心な時に役に立たないということはないでしょうか。もし、そう思うことがあるなら、自分の信仰自体を見直す必要があるのではないでしょうか。大切な時に信仰が働かないと思うとき。つまり、私たちの都合で信仰を利用しているのではないでしょうか。いつでも、どこでも、信仰に拠って生きる時、そんな思いには至らないことでしょう。私たちは、神様に出会う以前と変わらぬ自分の上に信仰を重ね着しようとしているのです。神様を信じているつもりで、自分を第一に信じているのです。神様が私たちの思いを越えた出来事を与えてくださっていても、自分を優先していると受け取ることができないのです。沢山の神様からのプレゼントに気づかないで過ごしているのです。そして、与えられないと不平不満を言うのです。信仰とは、根底から変えられなければ、本来の威力を発揮しないのです。何故なら、神様が与えてくださった大切なもの《者・物》を感謝して受け止めることができなくなるからです。私たちのより好みでは、神様の恵みは分からないのです。

 神様は、かつてイエス様を信じる人々を熱心に迫害していたパウロを用いて、主イエスの救いを宣べ伝える者にしました。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。」(19:11)と記されているように、パウロは病気を癒し、悪霊を追い出していました。しかし、その役割でもない人が自分勝手に行っても、逆効果となってしまうのです。主の名をみだりに唱え、用いることはできないのです。パウロゆえにこそなせること、働きがあったのです。信仰の受け取り違いをしないようにしなくては、自らが滅びに至るばかりです。それぞれが、神様に与えられている働きと役割、それぞれの賜物があるのですから、それをしっかりとわきまえて受け取らなくては、全てがマイナスにしか働かないのです。そのことに気づいたとき、私たちは神様の前で自分たちの悪行をはっきり告白することが大切なのです。そのことにさえ、気づかない・気づけない時、神様の御心を知ることなどできるはずがないのです。神様は全てをご存知です。創世記のアダムの罪の姿やカインの姿を見てどう思うでしょうか。滑稽に見えないでしょうか。私たちの生きる現実がそこにあるのです。私たちが行ってしまった間違いや誤りを素直に認め、新たに歩み出すことができれば、心解き放たれて安らぎを与えられ、豊かになることでしょう。私たちが捕らわれている様々な束縛から解き放たれることができれば幸いです。命も生活も働きも安らぎも健康も心配せずに、全てが神様の御心によって歩めればと祈ります。

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