日本基督教団 西神戸教会月報
2009年11月号

                   
  「わたしたちの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」
                             《ヤコブの手紙2章14節》 

 日々私たちにもたらされる出来事は、私たちの思いをはるかに越えたものであります。私たちの思うようにいかない事もその一つです。私たちの思うようにいかない時、それは悪い事であるとは限らないのです。私たちの心と頭を柔軟にし、様々な出会いの中で、神様の為されることをしっかりと受け止めて歩んでいければ幸いです。

 信仰とは、日々の生活の中で生かされてこそ意味あるものです。私たちの命と生活と密着しているものなのです。全ての命の源を神様におき、与えられている事の幸いの中で生きることができるのです。神様が私たちに与えてくださっているものは、とても豊かなものであり、私たちが決めつけている限界を越えて与えられてくるものなのです。神様を信じることでその道が開かれて行くのです。

 ヤコブの手紙で'信仰と行いの関係が取り上げられています。信仰がなければ、どんな行いも空しいし、逆に、信仰があるといっても、行いが伴わなければ意味がないのです。"信仰と行い"とは切り離すことができない密接している関係なのです。どちらも必要であり、どちらも伴うものなのです。どちらか一方ということはあり得ないのです。信仰があれば、当然形あるものとして行いで表れてきます。そして、行いによって信仰は、さらに養われ真実なものとなるのです。信仰が口先だけになったり、行いが義務や規則に縛られているものなら、本来の働きをなさないのです。信仰によって、私たちは豊かにされていきます。喜びと感謝に満たされて歩む道を知らされるのです。信仰によって人は、新しい人として歩み出すことができるのです。だからこそ、歩み出さなければ意味がないのです。ヤコブは、信仰によってアブラハムやラハブの行いがあったことを記しています。神様への全き信頼から、恐れず歩み出す力が与えられるのです。そして、一歩踏み出す事で、新しい道が始まるのです。神から与えられた機会を受け止め、神様を信じて大切に生かしていく事が求められているのです。それは、人と人との出会いも同じです。神様の愛を主イエスの許しを与えられている喜びを台なしにしているのは、しっかりと受け止めることのできない人間なのです。神様は許してくださっているのに、人間が許してくれないのです。しかし許せない人は、それだけの正しさを持ち、全ての事をなしているのでしょうか。

 私は、失敗や間違いの多い牧師であり、園長です。そんな私を周りの人が許し、支えてくれています。神様にそんな豊かな関係が与えられていることを心から感謝します。その感謝を与えられた働きと生活の場で生かしていきたいと願っています。
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