日本基督教団 西神戸教会月報
2010年2月号
イエスは、神様の働きをするためにまず荒れ野に出て行かれました。 それも"霊"に導かれて出て行ったのです。つまり、荒れ野に神様の働きをなすための大切な事が待っていたのです。 それは、神様を何よりも第一にするという信仰の姿です。 荒れ野にて、イエスは、悪魔の誘惑を受けました。 まず悪魔は、イエスが40日間断食をして空腹をおぼえる中、自分の力で食を満たすことへの誘惑をします。 次に、神様の力と守りを試す誘惑をします。そして最後には権威と権力、緊栄への誘惑も加えるのです、、悪魔は、ありとあらゆるものを用いて、イエスを試しました。 しかし、イエスは「退け、サタン。」と言って悪魔を追い払うのです。 荒れ野は、渇きの場所です。その渇きによって、人は弱さに出会います。 その出会いの中で何によって生きていくのかが、大切になってくるのです。 どんな状祝の中にあっても、神様を信じ続けていける信仰が様々なことを通して示されるのです。 私達が絶望だと思っていることの中にも、希望はあり、闇の中にも光があるのです。そのことを信じることができる者が、神様の備えてくださっている恵みを知ることができます。 自分の思う方向ばかり見つめていると、そのことには気づきません。 何故なら、神様は様々なことを通して、豊かな道を与えてくださるからです。 イエスは、空腹の中で石をパンに変えて食べることではなく、神様のみ言葉によって養われることを選びました。 私達は、食べることにばかり心を向けてしまい、神様に不平不満をつのらせてしまいます。 エジプトを出発したイスラエルの人々は、神様によって助け出されたという大いなる出来事よりも、神様に荒れ野に導かれることによって飢えていることに不満を抱き、つぶやいたのです。 人間の欲望は、大切なものを見失わせてしまうのです。そのことは、私達の生活の中でもあることではないでしょうか。 ニュースを見ていると、人間のエゴに満ちた事件や事故が如何に多いことでしょうか。 悪いことをする人は、人の弱さを利用して悪事を重ねていくのです。 人は弱い時にこそ、慎重に歩む道を見出していかなくてはいけないのです。 神様は、荒れ野や砂漠に花を咲かせてくださる方なのです。 そんなことはあり得ないと思うような事が起こるのです。私達には無理・不可能でも、神様には可能なのです。 私達も荒れ野にて、神様に出会うことができます。 私達が弱さや限界を知る時、神様の素晴らしい業を見出すことができるのです。 旧約聖書の随所で、神様から離れてしまった民に向かって「主に立ち返れ」と語られます。 私達にとって何が一番大切なのか、を教えてくださる神様といつも一緒に歩めることを祈ります。 |
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