日本基督教団 西神戸教会月報
2010年6月号
私達の歩みは、いつも喜びに満たされているでしょうか。聖書には、「主において常に喜びなさい。」(フイリピ4:4)と記されています。しかし、なかなか常に喜んでいる生活はできません。何故なのでしょう。その大きな原因は、私達の願いと求め、期待と思いが、神様の与えてくださるものと大きく異なっているからではないでしょうか。神様の与えてくださっているもの(者・物)を受け入れられず、受け止められずに、自分の思いを重視するから喜べなくなるのです。神様の与えてくださるものを素直に受け入れられたら、感謝と喜びで満たされます。しかし、そうでないならいつも顔は曇り、心は罪に満ちていくのです。自分の思いを満たすために、神様から与えられた、大切にすべきものを傷つけ、踏み付け、捨て去り、壊してしまうのです。そこに本当の喜びがあるのに、自ら放棄しているのです。神様ではなく、自分を基準に物を考え、 神様に出会い与えられる大切なことは、自分からも様々な価値観からも解放されることです。 今まで拘ってきたものから解き放たれるのです。神様に与えられているものは、いつも喜びに満ちているのです。それを分からなくしてしまう、邪魔する存往が人間なのではないでしょうか。教会が喜びに満たされるのは、神様の御心がなさている時です。どんなに苦しくても、その中にある喜びに出会う機会が与えられているからです。しかし、そこに人間の野望が入り込むとき、教会は歩むべき道を失い、 イエスに人々はつまずきました。その理由は、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコプ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と記されている様に、ただの身近な人だからです。人は、自分たちの思いと期祷と価値観によって、イエスにつまずくのです。神様はイエスに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に |
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