日本基督教団 西神戸教会月報
2010年7月号
私達は、与えられている命と日々の歩みに感謝しているでしょうか。信仰は、生命の営みを豊かにしてくれます。しかし、そのことに気づかなければ、そうは思えません。 例えば、与えられたものを神様からの大切なプレゼントとして受け止め、受け入れることによって、余計な思い煩いから解放されるのですが、自分の思いに閉ざされているとその豊かさや恵みに気づかないということがあるのです。 主イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と語っています。私達は、どこか中途半端な信じ方をしているのではないでしょうか。 主イエスを慕い求めて、多くの人々が集まっていました。しかしその中でイエスのことをしっかり理解し、受け止められている人はいませんでした。イエスは、弟子たちにこの世への働きを委ね、人々の中に遣わしました。働きの一つに癒しの業もありましたが、残念な事に十分にその力が発揮できない時がありました。その一つが、マルコによる福音書9章14〜29節の場面です。弟子たちが、何故汚れた霊を追い出せなかったのかとイエスに問うと、イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われました。弟子たちに、大切なものが欠けていたのです。それと同時にイェスが「なんと信仰のない時代なのか。」嘆いているように、群衆にも信仰の欠如と疑いがあり、中途半端な利己的な求めしかできなかったから、奇跡の業は行われなかったのです。悪霊に取りつかれた子どもの親は、イエスの言葉を聞いて、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫びました。その言葉を聞きイエスは、汚れた霊を追い出されたのです。 私達の信仰は、どうでしょうか。イエスが大切な事を行い、語り続けても「心がかたくな」(8:17〜)になっていたら、「悟ることができない」のです。私達の信仰の中心には、いつも自己中心の思いが居座っているのではないでしょうか。それゆえ、イエスを、神様を、他者を受け人れることができないのです。白分の都合と好みによって、信仰が操られてしまっているのです。だから、与えられる事柄によって、人に蹟き、神様に蹟き、イエスに躓くのです。神様は、いつも私達を愛し、豊かな恵みで満たしていてくださっていることを信じて歩める者でありたいと願います。私達にとって、良いと思えない事柄の中にも、神様の愛が満ちているのです。神様に繋がり「信じる者には何でもできる。」ことを信じ、祈り歩みましょう。 |
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