日本基督教団 西神戸教会月報
2010年10月号

                   
☆悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。(マタイによる福音書5章4節)

☆空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(マタイによる福音書6章26節)

  私達の願っている幸せとは、どんなことでしょう。イエス様は、私達の思いや願う幸せとは異なった幸せを示されました。私達が神様に全てを委ねる時、様々なものの価値観は変わってきます。今まで不幸せと思っていた中で、幸せを感じることができるのです。人はあまりにも恵まれ過ぎて、欲深くなってしまい、与えられている大切なものだけでは満足できなくなってしまっているのです。それが、人を不幸へと導いていくのです。当たり前の毎日の中に、幸せは沢山与えられています。イエスは、この世の価値観からすると不幸に思えるような事の中に、幸いがあることを伝えています。何と素晴らしいことでしょうか。しかし、そのことはイエスによって教えられなければ気づかないことなのです。なぜなら、私達はそんな中に幸せがあるとは思っていないからなのです。

 日々、様々な事に思い悩む私達にイエスは、思い悩むなと語られます。その理由として、空の鳥や野の花を神様が豊かに養ってくださっていることを示すのです。私達は、あまりにも多くの物の中から『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』と思い悩んでいるのです。そんなことは悩まなくてもよいことなのです。与えられていることに満足して歩めば、それに勝る物はないと語るのです。空の烏は、自分が生きていくために種を蒔いたり、刈り入れをしたり、倉に溜め込んだりはしません。そんなことをしなくても、神様が日々の養いを与えていてくださっています。私達は、多くのことを求め過ぎて、苦しんでいるのではないでしょうか。そして、人と比べて自分に与えられている物を見失っているのです。自分に今、神様が与えてくださっているもので十分なのです。そのことに気づくのは、それらを失ったり、欠いたりしたときです。その時にこそ、神の恵みの大きさを知らされるのです。だから、イエスが語る幸いは、私達の苦しい・悲しい・痛い現実の中に与えられて来るのです。私達は、お金持ちになることや家を持つこと、人に誉められることや、もてはやされる事を望みます。きれいな服を着て、おいしいものを食べたり飲んだりして満足を得ようとします。そして、地位や名誉や繁栄を求めます。人は、そこに幸せがあると信じて、そのために必死になるのです。しかし残念ながら、そこには本当の幸せはありません。いつかは、壊れ、失い、奪われ、欠けてしまうものでしかありません。それを得ることや保つことに一生懸命になってしまって、日々与えられている目の前の大切なものを失っていくのです。主イエスは、どんな中にあっても幸いを与えられていることを示してくださいます。私達が不平・不満に思っているただ中で、「あなたがたは幸いである。」と語り続けていてくださいます。何と希望に満ちた事でしょう。

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