日本基督教団 西神戸教会月報
2011年2月号

   ☆種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。   (ルカによる福音書8章5〜8節)

   神様が私達にとても大切なものを日々与えてくださっていることに気づいているでしょうか。当たり前だと思っている事の中に沢山の恵みが与えられているのです。それを感じることのできる一つのこととして、大切なものを失った時があります。与えられていることになれてしまい、それ以上に満たされることばかり求めている時は、そのことを感じることができないのです。神様のみ言葉やみ心を知り、受け人れる信仰に至るためには、私達の心を様々な経験(良い事・悪い事・嬉しい事・悲しい事等)を通して良く耕し、素直な心で、今の自分の命に感謝できるようになることが必要です。自分の欲望や要求や願いが強いとせっかく神様が与えてくださっているものが分からなくなるのです。イエスを受け入れることのできなかった当時の宗教的指導者達は、いつも自分の思いや考えが優先されていて、神様が与えてくださった人間に最も大切な生き方を受け入れることができなかったのです。 自分を基準にしている限り、せっかく蒔かれた種も実を結びません。心の畑を良く耕し、神様の豊かな愛と恵みを受け止めて、喜びと希望に満ちて歩めることができたならどんなに幸せなことでしょう。

   主イエスは、み言葉の種を蒔く事を譬えで示してくださっています。身近な譬えとして、人々には伝わったことでしょう。 しかし、その受け止め方は様々であったと思います。 自分の都合の良いように解釈・理解する人も少なくなかった事でしょう。大切なことは、「種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」ということです。道端・石地・茨の中にも種は蒔かれています。残念ながら、それらの場所では種は、実りません,、実らない種もあるのです。しかし、実る種は、百倍となるのです。種を蒔くことをあきらめず、たとえ不毛の地に蒔いて実らなくても、良い地に蒔けば百倍の実を得るのです。実らせることができるか否かは、蒔かれた地にあります。蒔く人は蒔き続けて行くことが大切なのです。神様のみ言葉とみ心を受け止め、歩める人は、そのことを知らず信じることができない、そして従えない人々が味わうことのできない恵みと喜びに満たされていくのです。 私達の心は、時には道端・石地・茨の中のようにもなるのです。そのことを決して忘れることなく、主イエスの愛に包まれて歩みたいものです。 自分は良い地だと思い違いをしてはいけません。良い地にするには、土をしっかりと耕し、雑草を抜き、水分と栄養を施し、種が育つ準備をしなくてはならないのです。神様から私達に与えられているものは、全てが良い地にするための肥料となるのです。
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