日本基督教団 西神戸教会月報
2011年7月号
☆その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリヤ人だった。 (ルカによる福音書17章15〜16節) ☆それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」 (ルカによる福音書17章19節) 今年は、梅雨入りが早かったため、梅雨明けも早く、本格的な暑さがやってきました。既に熱中症で多くの人たちが倒れています。神様の造ってくださった世界が、人間にとって、より良きものとなりますよう願っています。 私達を悩まし、苦しませるものが世の中には沢山あります。その一つとして、病いがあります。そのような悩みのある人々のために、イエスが神様から委ねられた大切な働きの一つに、癒しの業がありました。それゆえイエスの周りには、いつも病いを癒してほしいと願う人々が集まっていました。聖書には、イエスが多くの場所で奇跡の業として、癒しを行っていることが記されています。ここで示されている病いは、重い皮膚病です。イエスは、10人の重い皮膚病を患っていた人々の「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」との声を聞き、癒してくださいました。その癒しを受けて、その中の一人だけがイエスのところに戻って来て、感謝しました。他の人は、戻って来ませんでした。そんな状況の中で、イエスは、戻って来た一人に対して、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と語りかけてくださいました。ただ癒しが与えられるだけでは、救いとはならないのです。人を苦しめ、悩ませる原因の一つである病いは癒されますが、本質的な救いとはならないのです。今ある状況の中で、神様が与えてくださっている恵みに感謝することができることこそ救いとなるのです。私達を煩わせている様々な囚われの世界から解放され、神様の恵みの豊かさを知ることで、新しい世界を喜ぶことができるのです。 人は、自分の要求・要望だけに従い、それが満たされれば、満足して感謝を忘れてしまうことがあります。あの必死な願いや求めや祈りは、いったい何だったのでしょうか。人の浅はかさと自己中心的な思いが満ちています。イエスは、ただ人の欲望を満たすだけのために、癒しを与えられるものではありません。そこで生じる神様の恵みを示すためです。 癒しの中で示される神様の恵みの豊かさに人が気づき感謝し、神様に立ち返る機会となるためなのです。人は、神様を信じることによって、病いや困難の中にあっても恵みを見出す道が与えられているのです。癒されることが全てではないことが分かります。その背後にある神様の思いをしっかりと受け止め、歩み出すことこそ、大切なことなのです。私達にいつ、何が起るかは誰にも分かりません。そのような不確かな歩みであるからこそ、神様を信じることの大切さを痛感します。 |
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