日本基督教団 西神戸教会月報
2012年02月号
☆さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 (ヨハネによる福音書6章11・12節) 今、私自らが生かされている現実の中で、神様との出会いが与えられ、神様の愛を源にした様々な新しい価値観が与えられて、今まで囚われてきた偏った考え方や生き方が、変えられて歩めていることを幸いに思います。 神様が私たちに与えてくださる大切な事は、人が生きるのには、互いに愛し合うことが必要であるということです。 そのことさえできれば、世に与えられた命は、必ず輝くのです。 例外なく、世を生きる全ての人は、異なりを持っています。 その異なりは、神様の与えてくださっている賜物です。 違う事・異なる事が出会う世界において、互いが惜しむ事なく、各々の神様から与えられている知恵と力と財等を出し合えば、全ての人が支え合い・補い合い・助け合う存在となるのです。 一人ひとりが価値ある者として、世に存在していることが分かります。 かけがえのない命の営みがある限り、どんなに小さくて、弱くみえる存在でも、周りを明るく、元気にする力を持っています。 神様からこの世に与えられたもの(者・物〉で必要のないものは、何一つないのです。 ただ、人が与えられたものをどのように用いるかで、その必要性は変わってしまいます。 そのことを忘れないようにしたいと思います。 聖書は、イエス様が5,000人の人を5つのパンと2匹の魚で満腹にして、残りのパン屑を集めると12の籠がいっぱいになった話(ヨハネ6:1〜15)を記しています。 私たちの常識では、到底無理なことです。 しかし、イエスは、少年の持っていたパンと魚で人々を満たしてくださったのです。 弟子のアンデレは「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。 けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と語りました。 ところがイエスは、与えられた大切なパンと魚を感謝して祈りを捧げ、分け与えると、あり余るほどのものとなったのです。 たとえ人が、「何の役にも立たない」と思っても、神様に感謝して用いることによって、十分すぎるほど「役に立つ」のです。イエスは、「少しも無駄にならないように」とパン屑さえも集められるのです。ここに、私たちの価値観との違いがあるのです。 私たちは、せっかく与えられているものを使わずに無駄にしてはいないでしょうか。 自分の狭い世界に囚われて、感謝もせずに捨ててしまっているものがいっぱいあります。 神様が与えてくださっているものに無駄はないのです。 与えられた物は、自分のために、家族のために、他者のために用いることができます。 その用い方で、与えられたものが豊かになるか、無駄になるかが決まるのです。 お金・時間・心・体・知恵・知識・経験等々、全てです。 自分だけの世界は、何も産み出しません。 他者と共に生きる世界こそが、豊かな命を産み出すのです。与えられた状況の中で、人が「互いに愛し合い」「分かち合う」時、豊かで希望と喜びに満ちた道が拓かれるのです。 |
![]() |
![]() |
![]() ![]() |