日本基督教団 西神戸教会月報
2012年05月号
☆祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 (ヨハネによる福音書7章37・38節) 2012年度の歩みが始まり、早や1カ月が過ぎました。神様の愛の中で、今が与えられ、豊かな恵みに満たされて歩める幸いを感謝しています。神様の行われる業と言葉を、人が全て知り得ることができません。私達が知ることができる事は、神様の働きのごく一部分に過ぎません。全てを知ることは、誰にも許されていないし、できない事なです。旧約聖書においても、"わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない。" (コヘレトの言葉3章10・11節) と記されています。 世を生きて歩む中で、知ることのできる一部に気づくだけでも、人は神様の偉大さに触れることができるのです。そして、神様に自らの身を委ね、与えられている全ての事の中で、神様が働いていてくださることを信じることができるように導かれるのです。私達が日々生かされている歩みの中で、神様が沢山の事をしてくださっています。私達は、そのことに気が付いているでしょうか。神様を知る・信じる人は、些細な事の中にも神様のみ業を見ることができるのです。自分を中心に物事を捉えていては、なかなか神様の思いや業を知ることができないのです。神様の愛が湧き出る泉に到着すると、そんな自分という囚われから解放されるのです。 ここに与えられている聖書の箇所でも分かるように、イエスの行動や言葉も人々には簡単に理解することができませんでした。それゆえに、群衆のイエスに対する"ささやき"が広がっていきました。人は、自分たちの思いや経験を越えた神様の御心を知ることができないからです。しかし、イエスの声を聴き、受け入れる人々は、豊かな恵みの中を生かされるようになるのです。イエスは、無理解な人々に対して、旧約聖書(イザヤ12:3、44:3、55:1、58:11等)に語られてきた神様の言葉を、一人でも多くの人に聞こえるように、人の大勢集まる時と所を選び大声で伝えたのです。イエスは、今、様々な悲しみや苦しみや痛み等の中で渇いている人が、イエスを信じ、イエスという泉の所に来て、水を飲むならば、「その人の内から生きた水が流れ出るようになる」と語ってくださったのです。喉が渇いて水を求めた者が、水を与えられ潤されることによって、今度は他者に水を与える者に変えられるのです。私達の人生は、色んな事が起こります。それは、私達の知り得ることではありませんし、思うようになるものでもありません。だからこそ、その歩みのただ中に、いつも神様が共に歩んでくださることを信じることの心強さを思います。神様の愛と出会い、神様の溢れる恵みに満たされた者は、その愛によって豊かな世界へ導かれて行くのです。 |
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