日本基督教団 西神戸教会月報
2013年03月号

☆イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。1…中略…あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
《マタイによる福音書20章21〜27節》

 私たちは、毎週礼拝に集うごとに、聖書に示されている神様のみ言葉によって、様々な事に気づかされます。私たちの偏った狭い小さな世界では、理解することができない広い大きな世界が神様から示されるのです。私たちの中にある価値観は、多くの拘りと捕らわれによって、生きることを苦しくしています。しかし、神様が与えてくださる価値観に出合うと、そんな束縛や拘りが必要ないことに気づされるのです。そのことにより、私たちが今まで頼り、求め、願い続けてきたものを見つめ直す機会が与えられるのです。神様は、私たちにとって、本当に大切で、かけがえのないものは何か、を教えてくださっています。そのことを知る時、私たちは、今まで私たちを苦しめてきた様々なものから解放されていくのです。
 
 ここで語られている聖書は、人の求めと神様の求めとが異なり、すれ違っていることを示している箇所です。イエスが十字架と復活の予告をした後に、ヤコブとヨハネの母が、イエスのところに来て、自分の二人の息子をイエスの王座の右と左に置いて欲しいと願ったのです。ここで母が語る王座は、この世的な権威と権力を示すものとしてであります。しかし、イエスが今から赴こうとする神の王座は、苦しみと悲しみと痛みを伴う十字架と復活によって与えられるのでありました。それゆえに、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか。」と問うのです。その真意が、分っていない彼らは「できます」と答えます。この的を得ないやり取りの最中に、12弟子の他の10人も腹を立てるのです。ここでも、彼らの思いと神様の思いが違うことを明らかにしてしまいます。そんな彼らに対して、イエスは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配たちが民を支配し、偉い人たちが、権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」と語りかけられます。私たちは、必死になって必要のないもの求めたり、願ったり、望んだりし、またいつかは失われ、消え去るものにもかかわらず、失わないように、奪われないように一生懸命に守り、保とうとして、自らの歩みを苦しくしているのです。

 神様は、本来の命の営みから遠く掛け離れた歩みをしている私たちに、それぞれが与えられている命の大切さと役割を教えてくださいます。人は、一人では生きていけない存在です。だからこそ、互いに愛し合い、助け合い、補い合い、励まし合い、支え合ってこそ、豊かに生かされるのです。その生きき方が否定され、受け入れられない時、人々の命は脅かされるのです。イエスは、そのことを世の人々に伝えるために遣わされ、神様の愛によって生きたのです。私たちは、神様から命を与えられ、委ねられている者として、生かされています。その命を生きるのに、必要以上に求めたり、失うことを恐れることは必要ありません。何よりもまず、神様が、今、それぞれに与えてくださっている恵みに感謝して、他者と共に歩むことが大切なのです。

BACK NEXT TOPHOME