日本基督教団 西神戸教会月報
2013年04月号
☆イエスは言われた。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 《ヨハネによる福音書11章17〜27節》 1952年4月18日が西神戸教会の創立記念日と定められています。その日から数えて教会創立60年を越え、61年目の歩みを迎えました。60年という節日に、不思議と様々な課題が与えられて、2012年度の歩みがなされました。全てが神様の恵みに満たされて、行うことができました。神様は、私たちを支えて、今を迎えさせてくださっています。その歩みには、教会に集う人々の祈りと行いが必要でした。様々な異なりの中にあって、思いと祈りと行いを一つにすることは、とても難しいことです。色々な立場や主義・主張があります。しかし、それを越えて、神様から与えられた大切なことに心を向けることが求められるのです。今までの教会の歴史を支えてくださった神様の働きを信じて、新しい一年を歩み出したいと思います。 聖書において、イエスからの問いかけで「このことを信じるか。」と記されています。答えるためには、「このこと」が分かっていないとだめです。しかし、分からずに答えてしまうことが多いのです。私たちは、自分の都合で簡単に答えてしまうのてす。ここでもマルタは、すぐに答えています。でも、そんなに簡単に答えられる内容でしょうか。「私は復活であり、命である。」ということは、信じる者であれば大丈夫かも知れませんが、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」ということが、本当に理解できているのでしょうか。ここで信仰が問われているのです。私たちの信仰は、大丈夫でしょうか。自分の思いや願いで、一部分だけ信じていても、本当の信仰とはなり得ず、肝心な時に役に立たないのです。神様から与えられる力は、信仰によるものなのです。だからこそ、「死んでも生きる。」し、「決して死ぬことはない」ということにまでいたるのです。イエスこそが、私たちの命の源であり、死を越える存在となるからです。愛するラザロを失った悲しみは、大きく辛いものでした。何故、イエス様は、もう少し早く来てくれなかったのか、と思っていたマリアとマルタのもとに喜びが告げられたのです。目の前の悲しい現実を越えるイエスの業を、信じることができるのか否かが、問われているのです。そのことを受け入れられる者は、幸いを得ることができるのです。この信仰に至る時、私たちは、神様の愛と恵みの世界へと導かれて行くのです。 2013年度の歩みが始まりました。どんな一年になるのかは、誰にも分かりません。しかし、神様の存在を信じることができるならば、どんなことの中をも歩み行く力が与えられてくるのです。目に見える現実と私たちを取り巻く、狭い世界の中に閉じ込められるのではなく、それを打ち破る信仰が与えられ、神様の用意してくださっている広く大きな世界の中を歩んで行ければ、幸いです。今、生かされている世界は、幸せで満たされているでしょうか。どんな世界であっても、私たちの受け止め方、歩み方一つで変わってきます。どんなに辛くて、疲れることがあっても、そこに喜びを見い出すことができれば、生きがいのある、張り合いのある人生となることでしょう。与えられている現実の中で、何に出会うかが、私たちの歩みに大きな意味をもたらすのです。 |
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