日本基督教団 西神戸教会月報
2013年10月号
☆彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえに、彼ちは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におちれる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。 《ヨハネの黙示録7章14〜17節》 今の世において起こっている、様々な事象や出来事を見ていると、このまま人が悔い改めずに歩みを続けていれば、終わりの日は近いのではないか、という危機感が私にはあります。私たちが、本当に大切にすべきものは何なのか、を見失ってしまっているのではないでしょうか。命以上に大切なものはなく、愛以外にそれを保ち、豊かにするものはないのです。私たちが、様々なことを考えたり、感じたり、行なったりする事ができるのは、命が与えられているからこそなのです。それを抜きにしては、全てはあり得ないし、何も始まらないのです。だからこそ、与えられているたった一つのかけがえのない命を豊かに有効に用いていきましょう。 私たちは、苦しみや悲しみ等の困難にとても弱いのです。その弱さの中で、如何に生きていくかが大切です。その一つの生きる道として、私たちには神様の存在を信じることが与えられています。命の源なる神様によって、希望を失わずに歩むことができるのです。神様は、私たちに与えてくださっている命の責任をもっていてくださるのです。それは、私たちの思うような今のあり方ではないかも知れませんが、道は必ず備えられているのです。真っすぐ突き進む道、乗り越える道、逃れる道、回り道等と様々です。そのことを私たちがわきまえ知っていれば、豊かに生きることができるのです。ここで示されているヨハネの黙示録は、ローマ帝国より激しい迫害を受けているキリスト者に対して、終末の出来事を示しながら、新しい天と地とを待望して生きる道へと導いています。人々は、皇帝への礼拝を拒絶し、イエスを世にもたらした神のみを神として歩む信仰姿勢を貫きました。それゆえに、彼らに迫害と困難が襲いかかってきました。その状況下で人々は、神様によって示されている天上の世界を垣間見ることで、厳しい迫害と多くの苦難を耐え抜く励ましを得たのです。彼らに示されている天上の世界は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれも数え切れないほどの大群衆」が、白い衣を着てそこにいるのです。ありとあらゆる異なりを越えた集まりがそこにあります。その人々は、"大きな苦難を通って来た者"であり、神様によって、救いを見出したのです。それは、神の"小羊が彼らの者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる"からなのです。神様を信じることで、どんな苦しみの中にあっても、神様によって生かされる道がある、希望を得るのです。私たちが生かされている以上、必ず神様は共にいてくださり、荷を負ってくださるのです。それが生かされている証拠です。しかし、その命は、全て意味を持っています。そのことを私たちは忘れてはならないのです。忘れてしまうと、せっかく神様から与えられた命を無駄遣いしてしまい、方向違いの歩みをしてしまうのです。神と人と共に一人ひとりのを豊かに輝かせましょう。 |
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