日本基督教団 西神戸教会月報
2014年5月号
☆わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父に取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。《ヨハネによる福音書15章1〜2節》 ☆あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 《15章7節》 ☆父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 《15章9節》 ☆これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。《15章11節》 私たちは、それぞれに与えられている日々の生活の中で、喜びと感謝に満たされて歩んでいるでしょうか。なかなか、そんなふうには、受け止められないことが多いかもしれません。しかし、日々が喜びと感謝に満たされていれば、こんなうれしいことはありません。私たちは、神様と繋がることで、そのことを可能にすることができるのです。神様は、私たちがどんな中にあっても、いつも喜びと感謝へと向かうことのできる道を示してくださっています。'闇に光'を与えてくださる神様を信じ、神様の愛の中を生きる時、豊かな養いを得るのです。 イエスは、自らと人との関係をぶどうの木と枝の繋がりとして語り、そしてそれを世話する農夫として、神様の存在を語っています。繋がりにおいて、枝は木からしっかりと栄養を得ることで、実を結ぶ事ができます。農夫は、実を結ぶ枝のために、さらに豊かに実を結ぷように手入れをしてくださいます。逆に、実を結ばない枝は、繋がっている意味を失っているので、剪定され、取り除かれるのです。実を結ぶ枝と結ばない枝では、大きな違いがあるのです。私たちは、イエスと繋がることによって、愛という栄養を得ることができます。愛は人が生きるために欠くことのできない大切なものです。人を生かす潤滑油として、愛は与えられているのです。旧約時代の律法の定めでも、最も大切な掟として示されていますし、イエスも世を去る前に弟子たちに、新しい掟として「互いに愛し合いなさい」と語られました。イエスに繋がることで、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」との導きが与えられるのです。そこで、人は様々な気づきを与えられて、他者との関わりの中で、多くの経験をすることができるのです。人は、一人では、世を生きていけない存在なのです。神様の創造の出来事で「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2章18節)となっているとおりです。全ての人が例外なく、多くの人に助けられ、支えられ、補われることで存在しているのです。そのことに気づくか否かは、人の歩みに大きな影響を与えるのです。私たちに与えられている世界は、自分一人だけのものではなく、みんなが幸せに生きることができる世界なのです。神様に繋がっていることによって、そのことを知るのです。 イエスとの繋がりは、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」のです。神様は、いつも人を喜びへと導いてくださっていることを忘れずに歩みたいものです。 |
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