日本基督教団 西神戸教会月報
2014年7月号
☆キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。《ガラテヤの信徒への手紙5章6節》 ☆あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。《同5章7節》 ☆あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。《同5章13〜14節》 2014年になって、もう半分が過ぎました。色んな事がありましたが、今を迎えらていることに感謝します。命が与えられているということは、様々な可能性を秘めており、どう用いるかで色んな変化が生じてくるということなのです。神様は、そのより良い用い方をみ言葉によって、示し続けてくださっています。私たちがどんな状況下にあっても、神様の愛と恵みを信んじて歩んでいければ、幸いです。 神様の御心・御計画は、私たちの思いをはるかに越えたものです。使徒パウロは、熱心なユダヤ教の指導者で教会を迫害する者でした。しかし、神様はそんなパウロを選び、異邦人伝道に用いてくださいました。この変わり様に対しては、同胞からは裏切り者で信頼されない状況ではありましたが、そこに神様の選びがあることを信じる人々には受け入れられ、用いられたのです。そのパウロが語ることゆえに割礼に対する有無の問題は、大きなことだったと思われます。聖書が「わたしパウロがあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」と伝えています様に、イエスを信じる者にとっては、割礼を必要とせず、割礼が信仰を示すものとはならないのです。形骸化した信仰ではなく、神様の御心を行うことこそが信仰の姿として示されるのです。それはイエスをして明らかとされた「愛の実践」なのです。信仰というのは、目に見えるものではありませんので、人はその確認をしたいために、様々な形にこだわるのです。その一つが割礼であったのかもしれません。でも神様は、形でなく、内容を問われるのです。今、教会がとても大切にしているように思われる洗礼や聖餐式も形だけになってはいないのでしょうか。それは、何の保証にもなりません。それを受ける人の信仰(内容)が問われているのです。洗礼や聖餐を受けても、受けていても、「愛の実践」に役に立たななければ、形だけにすぎず、自己満足だけであり、神様の思いとは遠く隔たる歩みとなるのです。本来、洗礼や聖餐が信仰の源となり、今があること、命が与えられていることを神様に感謝し、神様の愛と恵みに満たされて、世に押し出され、互いに仕えることへと向かう力になるのであれば、意味を持つのです。それが、キリストの弟子となることであり、"愛の実践を伴う信仰”によって生きることなのです。私たちは、日々どんな信仰生活をしているのでしょうか。 パウロは、自らの人生において、過去の割礼にこだわった信仰から解き放たれて、信仰の自由を得て、イエスを生き活きと宣べ伝えたのです。その喜びと感謝により、各地に教会を作り、手紙を記し、信仰への導きに心を尽くしたのです。教会の歩みにおいて、また各自の信仰において必要なのは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言うことであることをパウロは伝え続けたのです。私たちの信仰の歩みはどうでしょうか。 |
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