日本基督教団 西神戸教会月報
2014年10月号

☆イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスはロを開き、教えられた。 《マタイによる福音書5章1〜2節》

☆心の貧しい人は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
                                                  《マタイによる福音書5章3〜4節》

 今年も大型の台風がやって来ました。その度毎に、各地で被害がなく、悲しみが地に広がらないことを祈るばかりでした。人は、御嶽山の噴火や各地での大雨や地震・津浪等の様々な自然の驚異にさらされ続けています。人は、その悲しみ・苦しみの中で何を得るのでしょう。神様の前で、人が謙虚に立つしかないのです。与えられた物事の中で、神様は何を人に示しているのでしょうか。御嶽山の噴火においては、いつ起きてもおかしくないことなのに、人はそのことを忘れてしまっていたのです。多くの犠牲を出すことで、改めて思い起こすのです。私たちのために犠牲となった命の貴さを思いっつ、与えられた歩みを大切に生きたいと願います。

 聖書は、神様の愛と恵みの豊かさを語っています。私たちが願っていること・望んでいることではない事の中に、神様の愛が示されていることを教えます。ここで与えられている聖書の箇所は、イエスがこの世の歩みを始あるに当たり、大切なことを弟子たちに伝えているのです。"山上の説教・山上の垂訓"と言われる箇所です。イエスは、山の上で腰を下ろして、ゆっくり、じっくり語られるのです。その内容は、イエスを信じて従う者たちに訪れる苦しみ・悲しみ等を語るものであると同時に、それは喜ばしいことであることを伝えるのです。誰にでも、いつ何が起こるかは、分かりません。起こってから慌てるのではなく、心を静め神様を信じて歩むことの幸いを伝えてくれます。今、人の価値観の中で不幸だと思っている事が、神様の御心から問い直すと幸いへと変わるのです。起こってしまった物に対して、いくら嘆いてもどうにもなりません。それよりも、その出来事を受け止めて、命に感謝して希望を抱き、歩みゆくことが大切なのです。そのことを私たちは、与えられている出来事を通して学ぷことができるのです。

 わが家は、娘のバイクの転倒事故による命の危機から、3年と10カ月が過ぎました。命が保たれることを切に祈り続けて、今に至ります。「何故こんなことが…」と思ったこともありました。でもそんなことよりも、目の前にある現実を受け止めて、その時にできることをすることが最優先されたのです。その命のために、自分たちのできることを必死でしてきたことを思い起こします。命が保たれただけでも感謝の一日一日でした。その娘もバイクで元気に出掛けて行って、長い月日を経て、病院と自立生活訓練(リハビリ〉施設で歩み、沢山の新たな出会いと交わりをして、わが家に車椅子で元気に帰って来ました。彼女の人生の中で、今を生きるのに大切な宝物が一杯与えられた時となりました。"悲しむ人々は、幸いである"とは思えない現実があります。しかし、その悲しみの中で私たちは、神様により、"その人たちは慰められる"現実を、人との出会いと交わりによって経験することができるのです。
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