日本基督教団 西神戸教会月報
2015年2月号

☆十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里に行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
(ルカによる福音言9章12・13節)

☆イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残った屑を集めると、十二籠もあった。
(ルカによる福音書9章16・17節)

 私たちは生かされている"今"に満足していますか。人は、なかなか与えられている現実に満足が出来ず、感謝もできず、欲望の渦巻く世界を繰り広げてしまっているような気がします。自分のことばかり考えて、自己中心な歩みとなり、他者の苦しみ、悲しみや痛みに心を向けることが出来なくなっているのです。今、世界に悲しい現実をもたらしている「イスラム国」の歩みや、それに対するヨルダンやアメリカや日本の対応はどうでしょう。それぞれが悲しみ苦しむ人を増やしているだけなのではないでしょうか。そこで幸せを得ている人はいるのでしょうか。人間の根本的な生き方が問題なのです。悲しい現実とそれを作り出している根本を問い直すものとして、聖書の御言葉が、私たちに与えられています。

 ここで与えられている聖書の箇所は、「五千人の給食」とも言われる、皆さんもよくご存じの場面です。主イエスのところに、救いや癒しを求めて多くの人が集まってきていました。みんなが熱心にイエスの言葉と業を求めて、イエスの側から離れないので、いつのまにか陽は傾き始め、日暮れが近づきました。そこで弟子たちは、みんながお腹を空かせては困ると思い、イエスに群衆を解散させることを提案しました。なぜなら、そこは人里から離れた所だったからです。しかし、イエスはその提案を退けて、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と驚くべきことを言われたのです。弟子たちはその言葉に戸惑いました。そこに集まっている群衆は、男が五千人もおり、彼らの手元にある食べ物は、五つのパンと二匹の魚だけでした。どうして食べさせることが出来るのでしょうか。でも、イエスは、すぐに行動を起こします。弟子たちに50人ぐらいずつ組にして座らせるように命じて、五つのパンと二匹の魚を天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、裂いて、人々に分け与えたのです。すると驚くべきことが起こりました。五つのパンと二匹の魚をイエスが分かち合うと、そこに居る「すべての人が食べて満腹した」のです。しかもそれだけでなく、食べ残った屑を集めると、12籠もあったとのことです。イエスの愛の業が起こったのではないでしょうか。

 弟子たちが提案した群衆を解散させることは、周りの村や里に行って宿をとり、食物を見つけられる人はよいのですが、出来ない人は困るという現実があるのです。実際、旅の途中で宿る所がなく、イエスは家畜小屋にて誕生したのです。ここでの食事は、食物やお金や健康状態等が、十分でない人のために必要なことだったのです。そのことによって、すべての人に満腹な状態が与えられたのです。ごく一部の人だけが満たされるのではなく、すべての人が満たされるために、イエスはパンと魚を分かち与えたのです。イエスの人を生かす嬉しい出来事をしっかりと味わいたいものです。
BACK NEXT TOPHOME