日本基督教団 西神戸教会月報
2015年3月号

☆祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
(ルカによる福音書9章28、31節)

☆彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。
(ルカによる福音書9章34~36節)

 3月に入り、2014年度も終わりの月となりました。一年を振り返ると、いろいろなことがありましたが、「今ここにいる」ことの素晴らしさを感謝します。東日本大震災から4年、阪神・淡路大震災から20年の時が経ちました。その悲しみ・苦しみ・痛みを伴いつつも今が与えられているのです。命の営みの大切さを痛感します。信仰は、全ての源に神様の存在を置き、そこから様々なことを受け入れて生きることへと導いてくれます。そのことで生きる力が与えられてくるのです。

 今、受難節の時、何故救い主(メシア〉であり、神の子であるイエスが苦しみを受けなくてはいけなかったのでしょうか。本来、人に喜ばれ、歓迎されるべき存在である者が、苦しみ・悲しみ・痛みを負わされたのです。そこにあるのは、気づかぬ人の罪の世界です。自分の秤ですべての物事をはかり、捕らわれてくると、神様の与えてくださっている大切なもの(者・物)を受け取れなくなるのです。そして、神様の思いや計画から離れた歩みへと進んで行くのです。神様は、イエスを遣わすことにより、人を再び神様のみ心に立ち返り、愛によって生きる道を与えてくださったのです。しかし残念ながら、それでも人は、愛の世界の豊かさに気づかずに歩み続けてしまっているのです。今この時に、イエスの十字架を思い、自らの歩みを振り返り、神様のみ心に適う愛の道こそが、幸いであることを知りましょう。

 今も昔も、人と神様の価値観の違いが、様々な場面で明らかにされて行きます。ここで与えられている聖書でも、弟子ぺトロの思いと神の思いとの違いが明らかにされてています。ここでイエスは、神様からの栄光に包まれる中、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」を、エリヤとモーセと話していました。しかし、自分の都合でペトロは、仮小屋を3つ建てようと提案しています。以前ペトロは、イエスの「わたしを何者だと言うのか」の問いかけに「あなたは神からのメシアです」と答えていますが、ここで栄光に輝くイエスに出会い、確信したのでしょう。その思いのままに、言葉を発しました。そこで新たな展開が訪れるのです。それは、ペトロが3つ仮小屋をと言っていたのに、彼らが一度雲に包まれ、天からの声「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」との後、再び姿が現れたときはイエスだけになっでいたのです。これから、イエスの身に起こることを受け入れて行くことが出来るための大きな出来事であったように思います。それは、あくまでも神の側に重きを置くときに、この出来事は生きてきます。しかし、パウロのように、自分たちの思いの中にこの出来事を受け止めてしまっては、いつか躓いてしまうのです。イエスがヨハネから洗礼を受けて、この世へ歩み出す時に、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声があったことと合わせると、イエスという存在が明らかにされます。そこにこそ、信じることのできる源があるのではないでしょうか。
BACK NEXT TOPHOME