日本基督教団 西神戸教会月報
2015年4月号
☆イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだ思った。 (ルカによる福音書24章36~37節) ☆そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 (ルカによる福音書24章38~39節) 4月に入り、2015年度の歩みが始まりました。今年度は、嬉しいことにイースターが年度初めの礼拝となりました。様々なことがありながらも、神様の恵みに満たされて終えることができた2014年度に感謝しつつ、新しい希望に満ちた春を迎え、新年度を歩み出すことができました。新しい歩みの中で、いつ何がどのように起こるか分からないのですが、神様を信じて歩み抜ければ幸いです。わたしたち人間は、失敗や間違いを繰り返し歩んでいます。しかし、それを悪いこととするのではなく、大切な経験として受け止めて行くとき、新しい世界が与えられてきます。 聖書を読む時、イエスの復活の出来事は、弟子たちの状況に合わせて起こっていることが分かります。イエスを慕い、安息日が終わるのを待ってイエスに香油を塗ろうと墓に駆けつけた女性たちは、イエスの遺体がないという悲しみの中で、イエスの復活を知りました。ある弟子は、肩を落として夕暮れに旅している時に、近づいて来て一緒に歩いてくださる復活のイエスに会いました。そのイエスは、共に食事をする時に最後の晩餐を思い起こさせる行為をしてくださいました。ここで与えられている出来事は、弟子たちが様々な復活の出来事を語り合っている真ん中に、復活の主イエス御自身が現れてくださったのです。しかし残念ながら、弟子たちはそのイエスを亡霊だと思って恐れたというのです。今、あれこれと復活の出来事について語り合っていたのに、目の前に現れたイエスのことが分からなかったのです。何と失礼なことで しょう。呆れてしまうような弟子たちの姿です。それにも関わらず、イエスは忍耐強く、語り掛けて知らせてくださったのです。「なぜ、うろたえるのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。」とイエスは言われたのです。この場面において、どこまでも期待を裏切り続けている弟子たちを見捨てることなく愛し続けてくださっているイエスの姿に出会うことができるのです。この言葉掛けに対して弟子たちの反応は「喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がって」いたので、さらにわざわざ焼いた魚をイエスが食べてくださるのです。ここまでしてもイエスは、彼らを復活の証人としてくださったのです。 わたしたちは、この証人たちからイエスの復活を知らされ、信じるものとされています。疑い深い人達であっても、信じるように神様はしてくださったのです。だからこそ、真実性が強まるのではないでしょうか。わたしたちは、見えないことや理解不可能なことや経験したことのないことに対して疑います。信じることは難しいのです。イエスの周りの人々で、復活の出来事をすぐに信じる事のできた人は少ないのです。弟子の一人であるトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネによる福音書20章25節)とまで言ったのです。しかし、そんな懐疑的な人々に対して、イエスは丁寧に出会い、交わり、信じる者としてくださったのです。心より感謝です。 |
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