日本基督教団 西神戸教会月報
2015年10月号

☆ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
   (ヘブライ人への手紙11章39~40節)

☆すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
   (同12章1~2節)

 月日の流れるのは早いもので、気がつけば、2015年度もすでに半分以上が過ぎています。それは、日々の営みの積み重ねによって、今に至っているものなのです。それゆえに、与えられた大切な時をどのように過ごしていくのかが、問われる今となるのです。わたしたちは、目の前に与えられている沢山の恵みに気がついて感謝しているでしょうか。せっかく与えられている恵みの時を嘆きと呟きで台なしにしていては、神様に申し訳ありません。今、命が与えられ生かされていること、様々な出来事に出会う機会が与えられていること、助けてくれる存在や愛する人々との出会いと交わりが与えられていること等々、感謝すべきことがいっぱいで喜びに満ちています。与えられているもの(者・物)に心を向けていくことが大切であるのに、無いものや欠けているものに心を奪われて、感謝すべき機会を失ってしまうのです。

 聖書は、信仰が神様に認められていても、約束されたものが与えられない事があることを語っています。わたしたちの思いや願いには適わなくても、神様の計画においては、それ以上のことが用意されており、与えられるのです。人は神様を信じて、与えられた目標を目指して歩むことが大切であり、結果は神様に委ねればよいのです。わたしたちは、そのことを受け入れて歩むことで、先のことを心配をせずに、今を生きることに心を注ぐことが出来るのです。たとえ与えられている状況が、どんなに困難な中であっても、そこに命の営みがある限り、多くの可能性が秘められており、様々な歩みが与えられてきます。たとえわたしたちが弱く、小さく、欠けたる者でも、神と人の愛と恵みに出会い、多くの助けを受けて、生きる喜びを知る機会となります。この世の不条理な歩みの中にあっても、神様は共にいてくださり、助け、支えてくださいます。主イエスは、何の罪も犯さなかったのに、犯罪者のごとく十字架につけられました。そこにこそ神様のみ心と計画があり、人への愛が秘められていたのです。与えられている自分のなすべき役割を知り、その道をしっかり歩んで行けばよいのです。それを信じ抜いて歩み続けられるか否かということが、試されます。自らの人生の主として、神様が存在することで、人は安心して過ごせるのです。わたしたちは、過ぎ去った日々の中で、様々な出来事に出会って今という時を迎えています。嬉しいこと、悲しいこと色々です。聖書には、信仰の歩みを通して、多くの困難の中を歩んだ姿が記されています。そんな困難の中で、信仰を全うするのに苦慮し、逃げ出したくなったこともあったでしょう。しかし、その中でこそ、示される神様の業に出会い、新たな力を受け歩むことができたのです。先達の人々の信仰のみが、そのことを証ししています。わたしたちは、信仰を得たことにより、困難な状況をも打ち破る道を与えられているのです。だから信仰者として神様を信じて自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
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