日本基督教団 西神戸教会月報
2015年11月号

☆彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間 隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、 アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの 間に置いた。
 (出エジプト記2章2~3節)

☆その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた (マーシャー)のですから。」   
 (出エジプト記2章10節)

 秋も深まり、わたしたちは、神様から与えられる恵みに満たされて日々を過ごしています。その一つ一つを受け取り、感謝し、喜びと希望を得て歩むことが、わたしたちの生きる力となります。わたしたちの周りを見渡すと、様々な命の営みに出会います。どの命にも、神様が与えてくださっている役割と責任が伴っています。そのことを知る時に、わたしたちも命を与えられた者としての責任を感じます。しかし、心配する必要はありません。そのことを人が自覚し、歩み出せば、必ず神様が責任を負い共に歩んでくださるのです。そのことを聖書は語り続けています。その一つとして、ここに記されているモーセの出来事があります。

 ここに登場するモーセは、イスラエルの民を苦役に強いられていたエジプトより、カナンの地へと導いた人です。その誕生は、生と死の境にありました。この世の力においては、本来殺されなくてはならない命でしたが、神様の み心において、その命は保たれました。しかも、様々な偶然が重なったかのような出来事です。しかし、それは決して偶然ではなく、神様の役目を負うために行われた神様のみ業なのです。モーセが出エジプト記にある通り、人々を導くときも、多くの不安と恐れがありましたが、神様が力を与え、道を与えて、その業を達成させてくださいました。それも、この世的に見れば、奇跡と思えるようなことばかりです。モーセの役割は、残念ながら約束の地を見るだけで、入ることではありませんでした。神様のみ心は、人の思いと願いとは異なります。だから、人は思わぬことに出会う時、偶然や奇跡と思ってしまうのです。モーセにもたらされた様々な出来事は、誕生の際には分からなかったことです。そのひとつ一つの出来事を知る時に、神様がいつもいてくださり、助け、支え、守り、豊かな導きを与え続けてくださっていたことが分かります。それは、モーセ個人の人生ではなく、多くの人々との繋がりの中での歩みだったからです。葦の茂みに隠された赤ちゃんが、王女に拾われて、命を保たれ、その後エジプトで裕福な生活をしていたのに、同胞の苦しむ場面に出会い、エジプト人を殺してしまい、エジプトから逃れて生活することになりました。しかし、そんなモーセが、神様の呼びかけで再びエジプトに導かれ、イスラエルの民を率いて出エジプトを成し遂げたのです。いつ、何が、どのように起こるかは、誰にも分かりません。しかし、そこに神様が共にいてくださるなら、道が与えられ続けるのです。わたしたちの人生も、神様が責任をもって、歩ませてくださることを信じて歩めれば幸いです。

 今に至るまでの皆さんの歩みは、どうでしたか。神様は、今の命を与えてくださっています。今まで、わたしたちの思いを越えた様々なことを経験して歩んできたのではないでしょうか。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこと等々色々です。どの出来事の中にも、神様のみ心がいつも働いています。神様を信じて歩みましょう。
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