日本基督教団 西神戸教会月報
2016年03月号
☆それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこへやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。 (ヨハネによる福音書18章3節) ☆シモン・べトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。…イエスはベトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」 (18章10・ll節) ☆イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。 (18章4・5節) 受難週を迎え、イエスの十字架への歩みが始まります。この一週間という限られた僅か数日の間に、イエスを取り巻く環境は大きく変化しました。人々は、エルサレムの町に来られたイエスを見て、自分たちの待ち望んでいたメシアが来たと思い、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と子ろばに乗ったイエスを歓迎して迎え入れました。しかし、イエスがその期待を裏切るようなことを語るのを聞いて、人々は離れて行きます。さらには、弟子の中にも裏切る者が現れ、十字架への道が明らかになっていくのです。そんな中でイエスは、心を騒がせつつも、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語り、「わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と語っています。さらには十字架を前にしたイエスの祈りの場面で、ヨハネは「父よ、時が来ました。あなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」との祈りを記しています。また、他の福音書では、イエスのゲッセマネでの祈りとして、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」という内容が記されています。聖書が語るように、イエスは、自分の身に起こることを何もかも知っておられました。だから、その歩みを前に、弟子や群衆に語るべきことを語り、なすべきことをなされたのです。 イエスは、最後の食事となる"最後の晩餐"を前にして、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻き、たらいに水を汲み弟子たちの足を洗われ、手ぬぐいで拭いてくださいました。そして、弟子たちに「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」と語られました。そして、弟子たちと共に食事を取り、裏切る者がいることを告げて、ユダに対して「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言われました。そして、自分の歩むべき道をしっかりと見つめつつ、弟子たちに対して、新しい掟として「互いに愛し合いなさい。」と大切な事を語り伝えるのです。 今まさに、ユダの裏切りにより捕らえられようとする時、イエスは、逃げも隠れもせず、はっきりと「ナザレのイエス」と自分を指しました。そのことによって捕らえられそうになった時、ペトロは剣を持って阻止しようとしましたが、イエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と語り、十字架の道を歩むことにより、喜びの復活の出来事へとつながったのです。 感謝です。 |
![]() |
![]() |
![]() ![]() |