日本基督教団 西神戸教会月報
2016年10月号
☆わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を日指してひたすら走ることです。 (フィリビの信徒への手紙3章12~14節) ☆何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して、歩んでいるものが多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 (フィリビの信徒への手紙3章13・14節) いつの間にか暑かった夏も終わり、朝に夕に涼しい日が増えて、心地よい風を感じる実り多い秋を迎えています。神様から与えられている恵みをいっぱい受け止めて、感謝と喜びに満たされて、日々の歩みを重ねていきたいと願っています。わたしたちの命は、神様から与えられた大切な宝物です。その輝きは、神様のみ言葉に従うことによって、増し加えられていきます。しかし、使わずに土の中に隠していては、輝きは消え去ってしまうのです。タラントンの讐えでも(マタイ25:14~)語られていることです。神様は、わたしたちを信用して、大切なものを預けてくださっています。その使い方は、人それぞれですが、いずれ神様にお返しする時に感謝を込めたものとなることが大切なのではないでしょうか。神様がこの世に与えてくださった命は、最後は神様のもとへと召されていきます。そのときに喜ばれるものでありたいと思います。 さて、実際に聖書でパウロは、大切なこととして"神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。"と語っています。しかも"なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ"与えられている目標に進んでいくのです。わたしたち人間には、どうすることも出来ない現実の中でも、神様は道を拓き、歩むべき道を与えてくださるのです。 神様は人への愛を、大切な一人子であるイエスをいけにえとして捧げるという形で現してくださったのです。せっかく与えられている目標への道も、自ら離れていってしまう人達がいました。そのことをパウロは、"今また涙ながらに言いますが、"と語りだし、 "彼らの行き着くところは滅びです。" と嘆く現状がありました。滅びに至るとは、どういう姿なのでしょう。自分中心に物事を考え、この世のことしか考えられずに、神様から与えられている大切なものに気づくこと・受け止めることができず、神様の備えてくださっている恵みに満ちた世界から遠ざる姿ではないでしょうか。 "わたしたちの本国は天にあります。" とパウロは語っていますが、この世のことに捕らわれていては、本国の天に気づくことはないのです。わたしたちの歩みはどうでしょう。信仰生活はどうでしょう。見当違いの目標を目指して走ってはいないでしょうか。 この世の目標ばかりに捕らわれて、その目標に達することのできないことに嘆き苦しみ、自ら滅んでいってはいないでしょうか。神様は、わたしたちを信じ、大切な命を委ねてくださっています。その命の向かうべき目標に、ひたすら走ることができれば幸いです。わたしたちを愛してくださる神様を信じて歩みましょう。 |
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