日本基督教団 西神戸教会月報
2017年2月号
☆この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。(マタイによる福音書15章:22節) ☆しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。(25節) ☆イエスが、「子供たちのバンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(26~28節) わたしたちは、日々の歩みの中で、神様を信じ、イエスを信じ、寄り頼み、どれだけ真剣に祈り、願い、求めているでしょうか。今日与えられている聖書の箇所は、あきらめず、信じて求め続けていく信仰の姿が示されています。 イエスがある町を訪れた時、一人の女の人が、イエスの所にやって来て、娘の病気を何とか癒してほしいと願い出ました。彼女の姿は、切羽詰まっており、今、頼れるのはイエスしかいないという思いが伝わってきます。必死な思いで、イエスにお願いをしています。そんな異国の女の人にイエスは、非情とも思える態度で接します。女が初めに願い出たときには、イエスは何もお答えになりませんでした。そして、さらに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とイエスは語ったのです。つまり、それは異国の人に対して、何かを語り、行うことはできないと言うことでもあります。そして、ただ単に病を癒す者、治癒者となることを避けたことでもあります。そんなイエスの冷たくみえる態度に対しても、この女の人は、ひるむ事なく、求め続けるのです。彼女の信仰の根底には、神の子であり、救い主なるイエスは、ただ一つの部族のためにだけ来られたのではなく、全ての人を救うために来てくださったという事があったのです。イエスが語るように、確かにイスラエルが、神の導きに応えきれず、神に背く罪を繰り返し、"失われた羊"の様になっていました。そして、そのイスラエルが悔い改めて、神様に立ち返り、信仰を確かなものとするためにイエスは来てくださいました。まずは、そこからです。しかし、ただそれだけで留まるものではなく、罪ある者が赦され、神と向き合い、祈る関係をも回復してくださるのです。 彼女は、自らを神様に養われる存在として、"小犬"と語ります。そして、子どもとして食卓にはつけなくても、そこから下にこぼれたパン屑はいただけると語ります。彼女のすがるような思いや願いは、イエスに「立派だ」と受け入れられるのです。女は、イエスの歩みと行いの中で、苦しむ者の側に来て、病を癒し、苦しみや悲しみを取り除き、罪の赦しを与えてくださる姿に触れ、そのイエスに養われて生きたいと切に願ったのです。彼女は、人に頼るのではなく、主の憐れみによって生きることを望みました。周りの者にその姿が、どのように見えたとしても、ひたすら主に助けを求め続けたのです。その信仰をイエスは受け入れてくださいました。そして、彼女の願いは聞き入れられて、娘の病気は癒されたのです。感謝です。 |
![]() |
![]() |
![]() ![]() |