日本基督教団 西神戸教会月報
2017年4月号
☆天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。(マタイによる福音書28章5・6節) ☆婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。するとイエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(8・9節) 「ハッピー・イースター! 」 「イースターおめでとう。」 こんな挨拶が最近様々な所で聞かれるようになってきました。このことはとても嬉しいことです。しかし残念ながら、その挨拶に込められている本当の内容は、あまり知られてはいません。世の人々は、クリスマスと同様にイースターを自分本位の価値観で受け取り、ただその時期にあるお祭り、お祝いとして利用し、大切な意味が伝わっていません。クリスマスであれば、寒く暗い冬を明るく、暖かくする雰囲気を作り出し、冬の商戦活動に利用し、そして、今、イースターの時期は、寒い冬から暖かい春を迎えた春の商戦活動に利用しています。クリスマスもそうですが、イースターもせっかくの機会ですから、わたしたちの信仰にとって大切な出来事と意味が、一人でも多くの人に伝わるように、わたしたちの宣教の働きが、用いられていくことを願います。そのためには、わたしたちがイエス・キリストの十字架と復活という、神様の大いなる愛と豊かな恵みの業に心を向けて、苦しみ、悲しみ、痛みを越えて与えられる本当の喜びと希望に満ちて歩み、自らの生き様、歩みに現すことが求められています。 さて、そんなことを思わされる今、わたしたちは、棕櫚の主日から始まった受難週の日々を味わいながら過ごしてきたでしょうか。そのことに思いを寄せることで、イエスが、神がどんなに大きなことをわたしたち人間のために行ってくださったのかを知らされます。イエスは、神の子でありながらも、取り去ってほしいと願う、苦しみである十字架を、神様の御心として負われ、人を、捕らえられている罪から救ってくださいました。神様が世に遣わしたメシヤ・救い主は、力によって世を支配するのではなく、人に仕え、世の誤りを正し、根底から支える者として生かされました。その姿の中にこそ、人を救い、喜びと希望を持って人が歩むことを可能とするのです。わたしたちは、他者と共に歩み、過ごすことに幸せを感じて歩んでいるでしょうか。神様は、天地創造の最後に、人を異なる存在として、互いに愛し合い、支え合い、助け合い、補い合うように創造されました。それは、神様の信頼を受け、人が自然界も含めて、世に与えられているすべての命の営みに責任を持ち歩める者としてくださっていることも現します。だからこそ、神様は、人をより良く生かすための道を示し続けてくださっているのです。わたしたちは、神様の愛が溢れる恵みを受け止めているでしょうか。かつて、神様の思いを受け取れず、自分本位に、自分勝手に神様の信頼を裏切り、たった一つだけの約束をも破ってしまうたアダムとイブの罪に支配されてはいないでしょうか。わたしたちが捕らわれているその罪の現実を打ち破り、解き放ってくださるために、イエスは十字架の苦しみを受け、復活なさいました。そのことに心を向けて歩みましょう。 |
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