日本基督教団 西神戸教会月報
2017年6月号

☆洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣ぺ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによって言われている人である。
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。』」
     (マタイによる福音書3章1~3節)

☆呼びかける声がある。
 主のために、荒れ野に道を備え、
 わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
     (イザヤ書40章3節)

 ペンテコステ礼拝を終え、弟子たちに神様からの力として聖霊が与えられたことから、弟子たちの"信仰による第二の人生”が始まりました。今までは、自分の思いや知識に留まり、自分たちの狭い世界で生きてきた弟子たちが、神様から自分たちの様々な限界を越えた聖霊の力を受けて、歩み始めたのです。人を恐れ、力を恐れ、自分を守る生活をしてきた人々が、人を恐れず、力を恐れず、神様から託された役割を担い、歩み出しました。彼らは、その託された歩みの中で、数多くの神様からの助けを受けることにより、更なる信仰へと進み歩むことが出来ました。神様は、彼らに新しい世界を与えて、生きる喜びをくださったのです。

 わたしたちの信じる信仰は、見えない万物の創造者なる神様と、神でありつつも、世に来てくださり人を愛し、十字架と復活と昇天という大いなる業をなし、人に生ざまを示してくださったイエスと、神様からの豊かな養いの力として、人に直接与えられている聖霊の働きによって成り立つものです。それが三位一体の神様の働きです。どれか一つでは成り立たないのです。ペンテコステの日、聖霊降臨という出来事により弟子たちは聖霊を受け、力強く世に出て行き、語り始めました。わたしたちを世に出て歩ませてくださる力こそが、神様から与えられる聖霊の働きなのです。その聖霊が欠けただけで、世において神様の働きを行うことは出来ません。人を恐れ、世を恐れ、力を恐れていては、神様の愛の世界、イエスが拓いてくださった道、弟子たちが伝えてきた歩みへは向かえません。また、自らの力を誇り、驕り高ぶっては、神様の業や神様の愛を伝えることは出来ません。今のわたしたちが囚われている世の価値観や限界の中では、神様の働きに参与はすることは難しいでしょう。わたしたちが神様に満たされることによって、神様のみ心やご計画を知ることができ、その歩みへと踏み出すことが出来るのです。わたしたちは、神様から与えられる聖霊の働きを過小評価して、無駄にしてはいないでしょうか。せっかく与えられているもの(者・物)を存分に用いれば、神様によって必ず道はひら(拓・開)かれます。聖書は、預言者ヨハネが神様からの召しに応えて、人々に対して大切なことを伝える役目を果たしたことを語ります。それは、ヨハネの言葉を人がどう受け止めるかを考えるのではなく、神様の言葉として大切なことを語ったのです。神様の大切な独り子イエスが来られる準備をするように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り、更に荒れ野で「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。』と人々に新しい世界への備えを訴えたのです。わたしたちも聖霊の助けを受け、神様から託された働きへと歩み出しましょう。
BACK NEXT TOPHOME