日本基督教団 西神戸教会月報
2017年10月号
☆信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。(ヘブライ人への手紙11章17節) ☆信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。(20節) ☆信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました.(22節) 10月を迎えて、周囲の自然の営みの中で、沢山の秋の実りを感じるようになりました。巡り来る季節を感じ、命の営みに心を向けることのできる幸いを感謝いたします。聖書は、神様が"天地創造"の業を終えた時のこととして、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)と記しています。この世にあるすべてをより良く造ってくださいました。人は、そのことを信じて、委ねられている働きをなしていけばよいのです。人が命を与えられている責任を果たすことで、神様の与えてくださっている世界は豊かなものとなっていきます。しかし、それはあくまでも神様の思いであり、人の思った通りのものではありません。人は自らの思いと異なることに出会うことで、信仰が問われていきます。 さて、ここに記されている聖書を見ると、神様から選び出された人々は、様々な事や時に「信仰によって」決断していきます。「信仰によって」決断するとは、神様を信じて歩むということです。どんなに不安や恐れや疑いがあったとしても、それを越えて、神様を信じて、神様によって生きることにかけるのです。まだ見ることのできない出来事の中で神様を見いだし、信じて歩むのです。聖書は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ll章1節〉と記しています。 今わたしたちの生かされている世界は、神様が良しとしてくださった世界とは大きく異なってきています。人の知恵が、神様の領域まで踏み込み、人間本位の世界としてしまってきたのです。ですから、本来人に恵みをもたらすべき自然は悲鳴を上げ、多くの災害が起こり、本来愛し合い、支え合い、助け合うべき人と人との閲係が、憎しみ合い、争い、殺し合うようになってしまったのです。それは、旧約聖書の世界でも見られた事です。神様の思いから離れてしまうことで、「信仰によって」の決断かできず歩む事によって、人は苦しみ、悲しむ世界を自らにもたらしてしまいます。それは神様の責任ではなく、わたしたちの責任です。便利で楽な生活を選択し続けて歩んできた人は、今、人の力では対抗しきれない自然の脅威にさらされ続けています。パウロは"テサロニケの信徒への手紙二"で「怠惰な生活への戒め」(3:6~13)を記しています。人は神様の思いよりも周囲の人に影響を受けて、"怠惰な"方へ向かってしまいます。そんな人に対して、パウロは神様から与えられている大切な命と賜物と力と財と知恵と体を無駄にする事なく、神様の目的に従って十分に用いて歩むことを示しました。そのことを知り歩むためにも、わたしたちはどんな時、状況の中でも神様を信じて"信仰によって"決断できる者でありたいと切に祈ります。 |
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