日本基督教団 西神戸教会月報
2017年11月号
☆エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを購う。(出エジプト記6章5~6節) ☆わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。(8章) ☆主はモーセに仰せになった。「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょう。」(10~12節) 秋の沢山の恵みに感謝しつつ、今を迎え、寒い冬へ移り行く季節を感じて歩めることをうれしく思います。わたしたちに神様から与えられている自然の営みの豊かさを実感いたします。神様は、人を愛し日々豊かな恵みで満たしてくださっています。そのことを聖書は伝え続けてくれています。神様はアブラムを選び、導きました。アブラムはその言葉を信じて住み慣れた場所を離れて旅立ち、歩み出しました。その歩みには、多くの困難も伴いましたが、神様を信じて、約束されていたものは与えられませんでしたが、自分の任された責任を果たし歩み抜きました。アブラムへの神様の約束の成就として与えられた出来事がここに与えられていることです。何世代も越えて、約束が果たされるのです。しかし、そこにおいて必要なこととして、神様の言葉を信じて歩む人の存在です。神様が何か事を起こそうとしても、それに応じる人がいなければ、何も起こりません。神様の言葉を信じて、歩み出す人がいて全てのことは生じて来ます。さて、ここで与えられている聖書の箇所は、モーセが神様によって選び出されている場面です。その選びは、一方的なものです。モーセにとっては、あまりに突然で、到底出来そうなことではありませんでした。しかし、神様にとっては、必要な存在でした。それは、モーセだけでなく、アロンも必要な助け手でした。モーセの立場や思いはよく分かります。いくら神様の言葉とはいえ、自分の力以上の事を求められても簡単に引き受けることは出来ません。ただ一つ引き受けることが出来るとすれば、神様を信じて歩み出すことです。何もせず、神様任せにしていても駄目です。神様の選びを信じ、必要なものは必ず与えてくださると信じ、自らのできることを精一杯行って歩む時、道が備えられてきます。神様の選びは、信仰が問われる歩みです。神様が選んで導き出してくださった限りは、責任を持って歩ませてくださいますが、神様から離れててしまうとその歩みを全うすることは出来ません。アブラムもモーセも、神様の選びゆえに多くの苦しみを負い歩みました。しかし、それはただ苦しいというのではなく、それぞれの逃れの道が用意されており、助けも備えられていました。その経験は、神様を信じて歩むことで、神様が共にいてくださり、神様の愛と恵みで満たされ、力を得て歩むことが出来ることを知る機会となったのです。神様を信じて歩むことで、わたしたちには無理なことでも、神様は可能にしてくださるのです。 |
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