日本基督教団 西神戸教会月報
2001年 2月号

                   
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。」
(ヨブ記 1章21節)

 人の死に出会うたび、上記の聖句を思い知らされます。人間には、どうすることも出来ぬ現実があります。知ろうとしても知ることの出来ぬことが、そこにあります。ただその現実を受け入れて行くしかないのです。確かな理由や原因を人は、誰ひとり知り得ません。ヨブは、愛する者の死や様々な苦しみ、悲しみの中で、神を見つめ歩み続けました。聖書は、「神を非難することなく、罪を犯さなかった。」と記しています。そんなヨブの姿に対し、友人たちは異議をとなえます。しかし、ヨブは、誰が何を言おうとも、その困難の理由が定かでなくても、生かされていることの中で神を信じ続けるのです。「主は与え、主は奪う。」こと以外は知ることが出来ない中で、ヨブも理由を求め苦悩し、「何故」と問いつつも神から離れず歩み続け、最後に神の豊かな祝福を受けたのです。
 私たちに訪れる出来事を、どこからどのように見てゆくかで、それぞれの歩み・生き様が変わってきます。自分中心で物事を見続ける限り、信仰はなえてしまい、神を見失ってしまいます。しかし、神のみ心を中心に出来事を見て行くとき、信仰という人を生かす(活かす)力で満ち溢れるのです。苦しみは苦しみの中でしか、悲しみは悲しみの中でしか、痛みは痛みの中でしか知ることの出来ぬものがたくさんあるのです。それを生かされている者がどう受け止め、受け入れ、歩み行くかが大切なのです。

 御影師範の英語教師をし、29歳という若さで天に召された信仰の詩人八木重吉さんの詩を
 紹介します。


空しいものだ 要するにむなしいものだ。
基督の眼から見ぬことができぬなら 私にとって何もかもつまらぬ

かみを感ぜよ 一日の苦労は まことひと日にて足る
わが生くるかぎりの苦労は 生くる日の苦労にてたる
かみを感じるものは恋人のごとく こころときめくがゆえに「名」をおもわず

ゆく末? わたしは 知りません-- わからないのです・・・
「こうしよう」と ねがって そう なるわけでもなかった
過去は すべて正しい そして すべて 過ちでした
  
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