日本基督教団 西神戸教会月報
2001年 3月号

                   
「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
(マタイによる福音書12章14節)

 上記の聖句は、イエスが”安息日”の定めにたいして、新たな解釈を加えたことによって引き起こされた出来事です。イエスは「安息日は、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8〜、23:12〜、31:12〜、35:1〜)という定めに捕らわれてしまって、大事なことすら出来ず、律法の束縛と不自由さの中で、人を裁き、苦しめてきた事(人)に異議を唱えるのです。本来”安息日”は「人のために定められた。」(マルコ2:27)ものであり、「安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ12:12)とイエスは語ります。人は、あまりに心かたくなになり、大切な事を欠いてしまっているのです。何の為に律法があり、何の為の掟なのか問い直します。”安息日”は、神に捧げる日であり、ただ何もせずに過ごすのではなく、神の為、人の命の為に用いるべき日なのです。イエスは、自らの言葉と行動を通して、神のみ心を伝えました。いつも人を愛し、救い、生かし歩み続け、最後には重く苦しい十字架をあえて負われたのです。自らの全てを捧げて、人が縛られている様々な物(人)から解き放ってくれるのです。
 私たちは、物事の見方や考えかたを間違ってはいないでしょうか。主イエスの歩みや言葉によって、自らの歩みを省みなくてはなりません。そのこと次第で、イエスに救われる者になるか、イエスを十字架に付ける者になるかが決まるのです。
 今、私たちは、受難節の時を歩んでいます。イエス・キリストが神のみ心として、人々に裏切られ、罵られ、唾きされつつ歩み行き、肉裂かれ血を流された十字架を思いつつ過ごす時です。イエスは、ゲッセマネで「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と語り、「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:36〜)と祈らざるを得ぬほどの苦しみを、神のみ心を悟らぬ私たち人間の救いのために負うてくださいました。受難節の日々、十字架へ歩み行かれた主イエスの苦しみを思い、神に感謝しつつ、神の愛と恵みに満たされ過ごせれば幸いです。

 聖書のみことばは、どこからどの様に読むかで変わります。ユンゲル・モルトマンは語ります。
  「貧しい人々の目で聖書を読むことと満腹した胃袋で聖書を読むこととは違うことである。もし聖書が被抑圧者の経験と希望の光に照らして読まれるならば、聖書の革命的主題ーー約束、出エジプト、復活、聖霊ーーが新たに生きてくる。」  《『聖霊の力における教会』》
  
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