日本基督教団 西神戸教会月報
2001年 6月号

                   
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのであうる。」
(マタイによる福音書25章40節)

 教会は、子どもの日・花の日礼拝で花を飾って、あるいは子どもを招いて礼拝する中で、多くのことを学びます。小さな花によって、慰められ、励まされ、力を受ける人がいます。私たちが、日々何気なく見過ごす中で花たちは、とても大切な役目を担っています。色とりどり、様々な形をもった花や花びらが、道端で一生懸命咲く姿に心魅せられる人がいます。私たちの気づかぬ人々の心がそこにあります。神は、その心と私たちが出会うことを、いつも求めておられるのではないでしょうか。

   讃美歌II−26[ちいさなかごに」を皆さんご存知だと思います。
 ◇小さなカゴに花を入れ、さびしい人にあげたなら、部屋に香り満ちあふれ、暗い胸も晴れるでしょう。
  愛のわざは小さくても、神のみ手が働いて、悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう。
 ◇「おはよう」とのあいさつも、心を込めて交わすなら、その一日お互いに、喜ばしく過ごすでしょう。
  愛のわざは小さくても、神のみ手が働いて、悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう。

私たちに与えられている、どんなに小さい物も神が用いてくださる時、豊かなものと変えられるのです。

 
子どもたちと共に礼拝をする時、その礼拝で何が一番大切なのかを問われます。大人の視点、立場、考えのみでは礼拝は成り立ちません。子どもの視点、立場に心寄せることが必要なのです。子どもを大人の所まで身をかがめて近づき、共に生きることが大切なのです。

 子どもは、大人の気づかぬささいな事・物・音などを教えてくれます。花や子どもや「あいさつ」という小さな者(物)・事の中に、神の宝がたくさん隠されているのです。時として、大人のどんな言葉や行いによっても慰められない心が、子どもの飾りのない率直な心からの笑顔や言葉で慰められる事があります。大人にはない、すばらしい輝きがそこにあるのです。

 イエスは、子どもを心から愛し、受け入れ(マタイ19:13〜、ルカ18:15〜、マルコ10:13)、天国の譬えにおいても子どもを用いられました。(マタイ18:1〜、マルコ9:33〜、リカ9:46) 子どもとは、私たちにとって、最も大切なものを教えてくれる存在なのかもしれません。子どもと共に歩む時、パウロが語る「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(Iコリント13:11)事を回復していけるのです。
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