日本基督教団 西神戸教会月報
2001年 9月号

                   
「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、私が選んだ器である。」
(使徒言行録9章15節)

 私が西神戸教会に招かれ、神のご計画として家族と共に神戸の地において、新しい歩みを始めて、早や1年が過ぎました。この1年に多くの人・もの・事と出会い、歩めたことを心より感謝しています。私たち一人一人には、神から与えられている使命や役割があります。それは、私たちの体の違いや異なりを生かすことではないでしょうか。私たちは、他と同じことで安心や平和を求めようとします。しかし、それはほんとうの平和や安心でしょうか。そこで得る平和は、少しでも違うものや異なるものをすぐに恐れ、また排除してしまいます。せっかく与えられている異なりの中にある大切なものに気づくこともなく、自らの狭い世界の中でちっぽけな自分よがりの安心で満足しているのです。私は、様々な出会いの中で、自分の世界の狭さに気づかれされてきました。故に、いつも出会いと交わりを大切にしたいと思っています。違いを共有し、互いの賜物を最大限用いることこそ、神のご計画ではないかと思います。十人十色と言いますが、みんな違って当たり前なのです。6年前に「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)という言葉との出会いは私の歩みを変えました。そしてその後、時が与えられて真宗大谷派(東本願寺)の園長と出会い「バラバラでいっしょ − 差異を認める世界の発見」というテーマで幼稚園教育のあり方を親を含めて大分県の私立幼稚園のみんなで共に考えるときを持ちました。私にとって違いとの出会いは宝です。私の世界が広がり、見えなかったというより見えていなかったものをたくさん発見することができるからです。
 キリスト教にとって、とても大切な存在となったパウロは、キリスト者を迫害する者として恐れられ、憎まれていました。しかし、そのパウロは、主イエス・キリストとの出会いにおって、人生が一変したのです。神のご計画の中で選び出され、他とは異なる使命と役割を与えられたのです。迫害者だったゆえの力強い神への導きを命を懸けてなしたのです。私たち一人一人も神によって「わたしの選んだ器」と語りかけられ、生かされているのです。
 パウロは語ります。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙I 12章) 「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって作り上げられてゆくのです。」 (エフェソの信徒への手紙4章)
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