日本基督教団 西神戸教会月報
2001年11月号

                   
「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」
(マタイによる福音書18章1節)

 この問いは、弟子たちがイエスになしたものです。この問いに対して、イエスは、まず初めに「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と答えられました。弟子たちは、当然天の国に入れるという前提で問いを発しましたが、彼らはまだ、その前段階であることをイエスから指摘されるのです。そこに彼らのおごりがあります。「誰が一番」といいうことを言っている場合ではないのです。なぜなら、今のままでは、彼らは、天の国に入れないのです。「誰が一番」と考えてしまう心を入れ替えない限り、天の国には入れません。「誰が一番」という問いは、自己顕示欲の現れであり、競争や背伸びや優越感・劣等感を引き起こし、憎しみ、争いの基となってゆきます。私たちにもそんな心はないでしょうか。自分の中にある当然という特権意識、或いはおごり、高ぶり等々。そんな心に対して、イエスは子どもを指し示すのです。彼らが蔑ろにし、価値を認めようとしない子ども(マタイ19:13〜、他)にこそ神の真理が隠されているのです。
 子どもは、弱く、小さく、持つものを十分持ち得ない、自分で自分の生活をなし得ない存在であり、簡単に大人に道を阻まれ、抑圧され、傷つけられるのです。ここにこそ、神の愛と助けが最大限もたらされるのです。子どもは、信ずるものに対して率直に助けを求め、全き信頼を持って身を委ねて生きます。そして自分を飾らず、悪いことにも良いことにも一生懸命です。そんな姿こそ、神の前に生きる人間の姿です。私たちの過ちや罪は、どんなに装っても神の前では隠せないのです。いくら謙虚や敬虔に振舞っても、本当に私たち自身が低くならねば天の国にはは入れないのです。私たちが弱く、小さく、欠け多いものとして、謙虚に神の許しと恵みの中を生きていく時、「誰が一番」でも「誰が偉い」と認められてもよくなるのです。自分に与えられた生命を神のみ心のままに輝かし、精一杯委ねられた自分の歩みをして行くとき、天の国に入れられていくのです。「偉い」とは、辞書で「優れている。社会的な地位・権力がある。」と記されています。偉い事を求めていくことは、子どもの様になることとは正反対です。私たちの中にある様々な捕らわれから解き放たれて、子どものように純粋に、いま与えられているものに対して、喜び・悲しむことが大切ではないでしょうか。自分の今を感謝することは、他者を競争相手とするのではなく、共に生きるものとして認めることが出来るのです。神に生かされるものとして、他者と共に豊かな交わりに生き、神の愛と恵みの中を歩みゆきたいものです。きっとそこに神の備えたもう場所があることでしょう。
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