日本基督教団 西神戸教会月報
2002年01月号

                   
「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。」
(使徒言行録15章8節)

 わたしたちは、自分の思い込みや慣習あるいは常識というもので人を裁いていないでしょうか。そのことをしっかりと見つめ直さなければ、いつの間にか気づかぬうちに自分がこの世の主となり、人の大切な命を奪っていることさえあるのです。それも多くの場合、誤った判断によって強引に推し進められて行きます。世を生きる時、そんな矛盾にたくさん出会います。わたしたちが自らの歩みを見つめ直す時、何が大切なことでしょうか。神のみ心を問い、人の話を聞く、あるいは批判をしっかり受けると言うことです。なぜなら、神はわたしたちの罪をはっきり示し、人は自分には分からないこと、気づかないことを教えてくれるからです。

 初代教会も様々な部分で不確かなことがたくさんあり、そのたびに話し合いをしてきました。特に使徒言行録15章では、ユダヤ人キリスト者たち(ファリサイ派)が「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と異邦人たちに語ったことにより、異邦人の救いを見てきたパウロやバルナバと「激しい対立」が生じたのです。その解決方法として、エルサレムにて使徒会議が開かれました。その会議で議論を重ねた後、指導的立場にいたペトロは、自らの経験から上記8節の言葉を語るのです。また、ヤコブも「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。」と語りました。神が示される出来事を見つめ、そこにある真実を知るとき、人は神のみ心へと導かれてゆくのです。

 「激しい対立」と聞くとドキッとしますが、それは真実を見つめるために必要不可欠なことなのです。教会あるいはキリスト者の間で神のみ心のための対立・衝突が起こっているでしょうか。それは、いけないこととして避けられ、我慢していることはないでしょうか。相対する考えの人は、共に生きることが出来ないのでしょうか。では、どうすれば一緒に歩めるのでしょうか。その応えを聖書は教えてくれるのです。対立・衝突も共に生きるために大切なこととして捉える時、相反することの中で神のみ心をみつめつつ、誤った決断をしないように最善を尽くすならば互いの心も変えられて行くのです。しかし、その対立がエゴによるものである時、感情がもつれ、分裂が起きるのです。わたしたちは、誤った正しさの主張によって、人を傷つけ、悲しませ、苦しみを負わせてはいないでしょうか。いつも神のみ声を聞きつつ、世の人と共に生きるものでありたいと願います。
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