日本基督教団 西神戸教会月報
2002年02月号

                   
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、私は認めます。」
(使徒言行録17章22節)

 パウロはアテネの町で「至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」(17章18節)とあります。にもかかわらず、パウロはあえて、そこの人々の信仰厚いことを認めて、話をするのです。相手を認めることは大切なことです。そこから会話は始まって行くのです。自分の思いと異なっていようとも、自分の主張や思いを伝えるためには、相手の思いを知らなくてはいけないのです。わたしたちにありがちなことは、ただ自分の主張・思いを伝えることに必死になって、相手の立場・思い・主張に心を開こうとしないことであります。そして自分の考え・思いを絶対化して他者に押し付けてしまうのです。他者を大切なパートナーと考えるときそんなことをしていては、歩みは成り立ちません。わたしとあなたは、違う存在であります。その両者が共に生きようとするとき、違いと共通点を生かしてゆくことが大切であります。互いに交わり、語り合い、自らの譲れないものを語っていくとき、新たな道が開かれて行きます。

 パウロは、相手のある部分は認めつつも、自分の語るべきことを語っています。せっかく信仰にあついのにはっきりしたものにたどり着いていない。その大切なものを伝えるのでそのことを聞いて欲しいと、真なる神を伝えるのです。そして、伝える中でも28節にあるように「皆さんのうちのある詩人たちも、・・・・・言っているとおりです。」と相手の土俵で相撲を取るのです。これだけ配慮しつつ伝えたのですが、結果は「ある者はあざ笑い、ある者はいずれまたきかせてもらおう。」(33節)ということでした。 ですが、「信仰に入った者も、何人かいた。」(34節)のです。

 神の働きとは、数や世の価値観で測れるものではありません。そこでいかに自らが神より恵みと祝福を受けているかということです。いくら苦労しても無駄だと思えることの中であっても、神がいつも働きかけ、助け、導いてくださる事に気がつく時、自分が世にある存在の確かさを感じることが出来るのです。わたしたちが世に生かされる限り、そこには、常に神の大切なみ心が働いているのです。
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