日本基督教団 西神戸教会月報
2002年03月号
十字架を前にしてイエスは、死と復活について3度予告(8:31〜、9:30、10:32〜)されました。しかし、いつも側にいた弟子たちは、その真の意味を理解できずにいました。 人は皆、自分の思いを中心に物事を考えてしまうので、都合のよい理解をしてしまいます。 ゲッセマネでイエスが必死に祈られている時でさえ、その心の葛藤も解らず、弟子たちは眠り込んでしまうのです(14:32〜)。 ヤコブとヨハネは、イエスがこれから人の罪のために茨の道へ向かおうとしている時に、自分のことしか考えていませんでした。 ここに人の思いと神の思いに大きな隔たりがあります。 2人が自分勝手な願い(37節)をしているのを知って、弟子たち10人も腹を立てました(41節)。 そこで、イエスは彼らの人の上に立ちたい、人より偉くなりたいという欲望に対して、神の思いを伝えるのです。 世においては、人を支配し、権力を振るう者が価値ある者のように考えられ、人々はそのことを願い、そのことの為に必死になって神の前で罪を重ねていきます。 この世は、強い・力ある者が人を傷つけ、苦しめても仕方なしとし、弱い・力なき者が悪い、あるいは損をするという力の関係を押し付けていきます。 そんな世の価値観に捕らわれている弟子たちに、神の価値観への転換を示すことをイエスは語るのです。 神の前で偉い者でありたいなら、「皆に仕える者になり、・・・・・・・・すべての人の僕になりなさい。」 これが、人の思いと神の思いの違いであります。 わたしたちは、何のために神を信じているのでしょうか。 自分の思いを捨てられない限り、神の備えたもう豊かな恵みにあずかることは出来ないのです。 なぜなら、神の用意してくださっているものは、神から見て恵みに満ちた計画であり、それがわたしたちの思い、あるいは世の価値観に、かなう物であるとは限らないのです。 神の独り子イエス・キリストは、人の為に自分の命を捧げるために来られたのです。 わたしたちは、"今"あるということに満足出来ず、得ることばかり求め、与えるこどなど考えもしません。 そんな絡みつく、様々な肉・欲・心の束縛から解き放たれる時、神の備えたもう平和を得ることが出来るのです。 |
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