日本基督教団 西神戸教会月報
2002年06月号

                   
「子供たちをわたしのところにこさせなさい。 妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。」
(マルコによる福音書10章14節)

 この場面を思い起こす時、イエスの優しさと愛に満ちた言葉と行動である事にいつも気づかされます。 わたしも3人の子どもを与えられた親として、子どもを受け入れることの大変さ、難しさをいつも感じながら過ごしています。 子どもは、大人の思うような行動はしてくれません。 良いことにも悪いことにも一生懸命です。 それをどう受け入れ、導いて行けば良いでしょうか。 わたしは、幸いなことに神への信頼が与えられているゆえに、余裕を持って子どもと接することが許されています。 子どもがこれからどの様に成長して行くかは、分かりませんが、神が共にいてくだされば、それぞれの状況の中で道は開かれて行くことでしょう。 故に、それぞれが命を与えられ、"今"存在するという事をしっかりと受け止めて行くことが、わたしたち大人の責任ではないでしょうか。

 イエスは、多くの働きと大切な日々の歩みゆえに、ゆっくりと休む時間も持てなかった事でしょう。 そんなイエスのもとに、子どもたちがうれしそうに走り寄って来ました。 そのことを弟子たちは、頭ごなしに叱り、彼らの道を遮り、妨げようとしました。 その行動は、イエスを思うが故の事でありました。 しかし、イエスは、子どもを妨げた弟子たちを見て憤り、叱りました。 ここにイエスの大切にすべき宝が隠されているのです。 イエスと子どもたちは、いつでもどこでも本当に心を通わせ、豊かな交わりが持たれていたのではないかと思います。 子供たちとイエスとの間には、互いへの信頼と愛があったのではないでしょうか。 なぜなら、子どもは、率直で正直ですから、大好きな人だったからこそ、抱きしめてもらいに行ったのです。 そうでない人のところに、子どもは喜んで行くことはないでしょう。 わたしの生きるうえで大切にしていることは、子どもがわたしを受け入れてくれるかということです。 髭をはやした怖そうなおじさんを子どもたちが大好きになってくれるかということは、わたしという人間の本質が問われる事なのです。 外見や見せかけの優しさを子どもは見抜きます。 わたしはいつもイエスの歩みを見つめつつ、次の言葉を大切にしたいと思います。 『はっきり言っておく。 この最も小さい一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』  あなたにとって、最も小さい一人とは誰でしょう。

 『やれなかった やらなかった どっちかな』(作:相田みつを)
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