日本基督教団 西神戸教会月報
2002年10月号
この言葉は、イエスが公生涯に入り、ガリラヤのカナでの婚礼に招かれ出席している際、母から婚礼の席で大切な「ぶどう酒がなくなりました。」(3節)と言われたときの応えです。イエスは、その後、水を良いぶどう酒に変えるという最初のしるしを弟子たちの前で行いました。「それで、弟子たちはイエスを信じた。」〈11節)と記されているとおりです。 イエスは、神から与えられる"時"を知っており、大切にされていました。自分のなすべき役割、なすべき事をいつも神の力を受けて行ってきました。イエスは、わたしの"時"は来ていないと語りつつも、最初のしるしを行われました。つまり、 その"時"が来る備えの歩みを始めたのです。イエスが行うこの世での働きは、やがて十字架と復活へとつながって行きます。人を愛し、神の愛と救い(許し・慰め・励まし・癒し・希望)を必要とする人々と共に生き歩み続けました。イエスは、神に与えられた自分にしか出来ない歩みをどんな中でもひたすら歩き続けたのです。 わたしたちは、森祐理姉を迎えてのチャペルコンサート(音楽礼拝)でたくさんの恵みが与えられました。集う一人ひとりが神のなされる業のすぱらしさ、生きる喜びと希望が豊かに与えられたのではないか思います。集った一人ひとりの状況や環境が違うので恵みの押し売りをすることは出来ませんが、今まで神の愛など知るすべのなかった人に、ひとつの"時"を提供することが出来たのではないかと思います。 森祐理姉のチャペルコンサートの中で、《どんな人も、みんなそのまま神様に愛されている。わたしには、何もないと思う人にも神様よりたくさんの恵みが与えられている。そしてさらには、神は、愛をもって目的を持ってすべてを作られ、命を与えてくださっているのだから、その人にしか出来ないことが必ずある。また、弱いからこそ神によって強くされる。等々。と》自らの経験してきた数々の苦しみや喜びの歩みを通しての生き活きとした"証しと賛美"がなされ、力強いメッセージが与えられました。神を賛美する色々な歌手の人々がいますが、わたしたちの今回与えられた恵みの時は、彼女にしかできない証しと賛美であり、神の働きの業であることを痛感致しました。 わたしたちには、それぞれが神から与えられた自分にしか出来ない働きがあります。 それは、他の人と同じではないのです。なぜなら、わたしたちは一人ひとり異なりを持ちつつ、共に生きる人間だからです。 |
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