日本基督教団 西神戸教会月報
2002年11月号
主イエスは、わたしたちがこの世を生きる時、いつの間にか、大切にして守らなくてはならない物(者)・事を忘れ去ってしまつている事に対して、いつもみ声と業を持って臨んでくださいます。世を生かされている一人ひとりは、大切な存在として命を与えられ、それぞれが人と人との間で生きるために自己と他者とにとって大切な役割を持っているのです。その尊い存在が、現実の社会の中では、世の力や権威や様々な強さによって否定や搾や抑圧がなされ、思想や生活や食べ物さらには命さえも脅かされ、困難や悲しみを負わされる者・怒り憤りを抱く者とされていくのです。その現実の中で主イエスは、弱く、小さな者を大切にしてくださいます。それこそが神に祝福される者であることを教えてくださるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28) 「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちぱんえらいのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:4ー5) 悲しみの源に人間の驕り・高ぶりがあります。神は、「誇る者は主を誇れ」といつもわたしたちに語りかけてくださいます。それは、人と人との中を生かされているわたしたちが、自らや他者の悲しみの源にならないためであります。自らの存在を見つめ直す時、弱く、小さい存在であり、決して神にも人にも誇る事・物などないことを知らされるのです。 コリントの教会の人々も、世の歩みをなすうちに人間的な価値感によって、そのことを忘れてしまい、誰が偉い・優れてる・力があるという事に思いを寄せていきました。そんな人々にパウロは、神に選ばれ、召された時の事を思い出しなさいと伝えました。それは、神が、様々な弱さを持った者、世の無に等しい者を選ぶ事によって、だれ一人、神の前で誇ることのないようにしてくださった事を教えてくれるのです。 わたしたちにとって大切な事は、無に等しいわたしたちが、神により生きる命を与えられ、世において無くてはならない存在として、生かされていることです。神はありのままのわたしたちを受け入れ、あるがままのわたしたちをを用いて、神と他者にとって大切な存在としてくださっているのです。神は、人が人を否定し、他者の生きることを邪魔する世を悲しまれていることでしょう。 |
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