日本基督教団 西神戸教会月報
2003年03月号

                   
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。
ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
《ヨハネによる福音書5章39節》

 わたしたちは、この世を生きる時「何かが違う」と思う事に、度々出会っているのではないでしょうか。人に語っている事と実際その人が行っている事の違い。目的・目標と矛盾する行い。今まで思っていた事や考えていた事と現実の違い。そんな様々な「何かが違う」という出来事が、人の生き様に大きな影響を与えます。わたしたちも神の愛と平和を求め信じ歩んでいますが、今、すぐそこまで戦争の足音が聞こえています。それも、もっともらしい理由をつけた独善的でエゴイズムの行為は、平気で多くの尊い人の生命を奪っていくのです。これは、仕方のない事なのでしょうか。力による平和は、ただの抑圧による支配であって、真の平和ではありません。神の与えたもう愛による平和を求め、今の歩みの「何かが違う」事に気づき、NOを言える者でありたいと思います。

 イエスは、神から遣わされた者として、信じる道をひたすら歩み続けました。その事を理解する事の出来ない、認めようとしない多くの人々の中で生き、語りかけました。神を信じて従っているようで、見当違いの歩みをしている人々に真の神のみ心を伝え、真の神のみ心の業をなしたのです。永遠の命を求めて、聖書を研究している者にイエスは、あなたたちが学んでいる「聖書はわたしについて証しをするものだ。」と語り、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへこようとしない。」と続けるのです。命を聖書に求め、神に向かっているにも関わらず、イエスを認めようとも、受け入れようともしないのです。「何かが違う」のです。その原因は、何でしょう。イエスを神から遣わされた人と信じるか、否かで有り、また求めているものが、人の誉れなのか、神の誉れなのかの違いであり、その人の中に神の愛が有るか、無いかの違いなのです。どこから何を見・聞くかによって、その人の生き様は、変わって行くです。

 わたしたちは、主イエス・キリストの十字架を前にした受難節の今、日々の歩みの中でしっかりと神のみ心をイエスの歩みの中から見いだし、見当違いの歩みをしないように、自らを見つめ直すことが大切ではないでしょうか。自分の求めているもの、進み行こうとしている道、成そうとしている行為、その一つ一つが神のみ心に適ったものなのでしょうか。神を愛し、人を愛し、その事の妨げとなる世にある「何かが違う」ものに惑わされず、人との豊かな出会いと交わりの中を生きて行きたいものてす。
 
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