日本基督教団 西神戸教会月報
2003年04月号

                   
主イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
《ヨハネによる福音書20章15節》

 わたしたちの信仰で一番問われるのは、「復活の主イエスを信じるか。」という事であります。この世の常識や知識の中で考えている限り知ることの出来ない出未事であります。復活の証人となった人々も復活の主に会わなけれぱ、伝える事は出来なかった事でしょう。そして"今"を生きるわたしたちはその証言以外信じる根拠を持ちません。その証言を通し、いつも共に歩み、わたしたちを生かしてくださる主イエスヘの、絶対的信頼が養われるのです。

 ヨハネによる福音書は、主イエスが人と出会い、具体的に語りかけてくださっている事を大切にしています。語りかける相手が、見当違いの考えや言葉で応答したとしてもその出会いを大切にしてくださいます。主を信じつつも違う方を見ている人、見当違いな受け取り方をしている人を導かれるのです。主は、人の生きている現実の中で出会い、歩むべき道をいつも与えてくださるのです。マリアは、空の墓を見て、イエスの体が無くなっている事に悲しみ泣き続けていました。その悲しみの中で主は出会い、語りかけてくださったのです。空虚の墓より離れられず、悲しみ途方に暮れるマリアは、そのことが理解出来ませんでした。当然なことでしょう。その理解出来ないマリアに復活のイエスは、「マリア」と呼びかけてくださったのです。彼女は振り返り、イエスと向かい合います。そして、彼女のいつまでも見える者に頼り、すがりついている信仰に対してわたしにすがりつくのはよしなさい。」と新たなる方向を指し示すのです。イエスとマリアの出会いは、『マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。』(18節)と記されている様に、いつまでも留まりすがりつく者を、伝えに出て行く者へと変える出来事となりました。主に出会い安らぎ、主を信じ、力を受けて歩み出す姿がここにあります。そこから、全てのもの(者・物)が始まるのです。

 わたしたちは、主と向かい合い、この世がどんな状況であったとしても惑わされずに主イエス・キリストの命の言葉を聞いているでしょうか。雑音や雑念、世の価値観や常識、伝統や習慣等によって、向く方向を間違っていませんか。神は、全ての人への愛を、人の罪の犠牲として独り子イエスが十字架の上で肉裂かれ血を流すという姿で示されました。かけがえのない命を与えられた者として、神の語りかけてくださる言葉を聞き逃す事なく、備えられたそれぞれの場において、神の御心を行うことが出来れば幸いです。特に、人との出会いと交わりの中で。
 
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