日本基督教団 西神戸教会月報
2003年05月号
イエスがこの様に語ったのは、38年間も病気で苦しんでいた人をイエスが安息日に癒した事によって、人々がつぶやき、イエスを裁き始めたからです。イエスにとって人々のつぶやきや裁き、さらには殺意は、大きな問題ではありません。問題なのは、人々の根拠のない間違った考えと判断であります。ここでイエスを裁く理由の一つとされるのは、モーセの律法に基づく安息日の規定です。 安息日の定めとは、神からイスラエルの民に与えられた約束であるモーセの十戒の一つであり、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」(出エジブト20:10)というものであります。人々は、この定めのため安息日を聖なる日として尊び、神のためのみに捧げていました。しかし、その日であっても男の子が生まれて8日目に当たる時には、割礼を受けることだけは良しとしていたのです。どちらも神のために捧げる大切な業であるという理解のもとで行っていたのでしよう。そんな彼らの安息日の捕らえ方に対してイエスは、剣を投げ込むのです。神の為という理由で割礼という体の一部分に傷つける行為を許しているにも関わらず、神の為(神の御心として)全身を癒した事に腹を立てている矛盾を突き付けるのです。この背景には、ただ単に律法を破ったということに限らず、人々のイエスヘの驚異や妬みなどの様々な感情が入り乱れているのではないでしょうか。ただ彼らに都合の良い事にイエスの律法違反があったので、最もらしく裁きを行おうとしていたのです。 わたしたちは、同じような理由で人を裁き、退け、排除していることはないでしょうか。最もらしい理由を見つけて、自分の意を押し通そうとする。しかし、そこにおいては、無理があるのです。イエスに対しても彼らは、何も出来ませんでした。神の御心は、人々の全ての計り事を明らかにしてくれるのです。わたしたちは、神の前でいつも裸にされているのです。わたしたちの心の奥底にある事も、神は全てご存じであります。ゆえに神の御心でない事をする時にわたしたちの心は痛み、人さえも避けて闇の歩みになってしまうのです。「うわべ」と言われる事は、表面的ということであり、そこにある大切な問題・真実・真理を避けている事であります。「うわべ」では何も解決しません。人間関係も同じです。「うわべ」で付き合う事と真の隣り人になる事とは、大きな違いがあるのです。「うわべ」で生きるのではなく、人として自らをさらけ出して、神と人とに認められ生きて行ければ幸いです。 |
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