日本基督教団 西神戸教会月報
2003年06月号

                   
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」
《コリントの信徒への手紙一 12章27節・28節》

 わたしたち一人一人が神に生かされているのには、それぞれが様々な意味を持っています。しかし、その意味をわたしたちは、自分自身でなかなか見いだすことが出ません。それだけではなく、他者もその意味に気づいてくれないのです。そんなときわたしたちは、生きる喜ぴや望みを失ってしまいます。そんな弱い者に神様は、生きているだけで価値あることを色んな場面で教えてくれます。わたしたちは、他者と、共に生きる世において、他と同じでなくてはいけないと思ったり、全てのことを欠けなくなさねばならないと思い込んでしまっている事があります。それは、人間の傲慢な思いであり、そんな事は不可能なのです。その事に気づくと少し肩の荷を下ろす事ができます。人は世の初めから異なる存在として造られました。しかし、その異なりは、あくまでも"ふさわしい助けて"としてです。人と人とが豊かに生きる事の出来る関わりを神様は、主イエスの十字架の愛によって与えてくれるのです。

 神の愛により作り上げられた教会においても、他と共に生きる事が難しい現状があります。何故でしょうか。教会自体は、世に生きる人間の集まりであるからです。世において問題となる事は、教会の中でも同じく問題となるのです。パウロは、教会内での権力争いや裁き合う関係を神による正しい関係に導こうと語りかけます。教会の群れに対して「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と語るのです。一つの体を作る部分であるのに、それぞれが自分の事ばかり考え、自己主張ぱかりして、他を思いやる事ができず、他の働きを認められずにいると体はバラバラになってしまいます。それぞれが与えられた立場の中で、全体の益となるように他を認めて働く時、一つ一つの部分が持ち場での力を発揮し、一つの体として豊かなものをもたらします。みんなが同じ事をする必要はないのです。それぞれが神様から与えられた賜物を生かして、歩む事が大切なのです。また、他者の与えられている賜物を羨む必要もないのです。何故なら、自らにも豊かな賜物が与えられているからです。大切なのは、神様が与えてくださっている、他とは異なる賜物をしっかりと見い出すことです。決して、何でも持ち合わせる・何でも出来るオールマイティーである必要はないのです。忘れてはならない事は、一人で体を作り上げているのではないという事です。わたしたち一人一人は、部分として、お互いが支え合い・補い合い・助け合い・認め合い・他を思いやり、全体の益となるように自らの賜物を十分に生かして歩む事に、"今ここにいる"大いなる意味があるのです。
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