日本基督教団 西神戸教会月報
2003年07月号

                   
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
《ヨハネによる福音書9章3節》

私たちの歩みには、過去・現在・未来という時の流れがあります。いつも問題となるのは、現在"今"という時であります。その"今"を生きる時に、過去は大きな影響を与えます。それと同時に将来(未来)を考えると"今"の歩みが大きく影響を受けます。私たちに大切なのは、過去や未来に捕らわれず"今"神様から与えられている命を精一杯に輝かせることではないかと思います。神様が与えてくださっている自分の中にある大切な宝物(賜物)を見いだし、与えられている"今"を神様によって豊かに生かされて行く時、私たちは様々な捕らわれから解き放たれて歩む道へ導かれて行くのです。

 イエスは、道を歩いている時生まれつき目の見えない人を見かけられました。その時、弟子たちは自分たちの宗教的・思想的関心からイエスに問いかけました。当時の考え方によると、肉体的困難や生活の困難等の原因は何らかの罪の報いであるという事がありました。故にこの人の肉体的困難はだれの罪の結果であるかを問うのです。

 弟子たちは、この人の心や体の苦悩や痛みを心配し寄り添う訳ではなく、イエスにこの人の助けを求めるものでもありませんでした。ただこの人を通して自分たちの関心を満たすためでありました。イエスは、そんな間違った弟子たちの考え方に対し、誰の罪でもなく「神の業がこの人に現れるためである。」と語り、この人を癒されました。弟子たちの誤った宗教的思想観念を否定するのです。ここで大切なのは、この人の"今"であります。過去でも未来でもなく"今"を大切に出会う事です。この人とイエスの出会いは、弟子たちの間違った考えを通してでした。イエスにとっては、通りすがりに見かけた人で、イエスに癒しを求めて未た者ではありませんでした。しかし、苦難の原因を過去に求める弟子に"今"この人に何が起こるかを示し、弟子を様々な捕らわれより解き放つのです。

 世(私たち)は、しぱしぱ親切や好意の押し売りをしたり、善意の押し付けをしてしまいます。様々な状況の中で何によって人が困難な状況にあるのか。困難にある人が`今"何を必要としているのかを大切にして行かなけれぱ、逆にその人を傷つけ、痛みを与える事になるのです。人との出会いは、ありのままの自分とありのままの他者との出会いではないでしょうか。イエスは、自らの歩みを通して、私たちが捕らわれているありとあらゆる価値観から解き放ち、本当に大切にすべきもの(者・物)を与えてくださるのです。
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