日本基督教団 西神戸教会月報
2003年09月号

                   
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、
死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」
《ヨハネによる福音書ll章25節》

 ヨハネによる福音書の中で、イエスは自らの存在について様々な表現を使って語っています。わたしは「命のパン」(6:35,48)・「世の光」(8:12)・「良い羊飼い」〈10:11)・「道、真理、命」(14:6)・「まことのぶどうの木」(15:1,5)である。それと同じくしてここでも「わたしは復活であり、命である。」と語られているのです。

 わたしたちが主イエス・キリストを信じるということは、決して部分的なものではありません。ここのイエスは信じて、あそこでのイエスは信じられないと言うことであるならば、それは信仰というものではなく、ただ自分の都合で利用しているのに過ぎないのです。わたしたちは、信じ難き事も信じる信仰をイエスから何時も迫られているのではないでしょうか。ここで語られている出来事、つまり人間の生と死、更には命と復活について「このことを信じるか」と問われるのです。

 愛するラザロの死は、ラザロのみの出来事に留まらず、周りにいる多くの人に影響を及ぼして行くのです。人の生と死は、その人のみに留まらず、わたしたちにも様々な事を問いかけ教えてくれるものである事を、わたし自身も身近な人々との関わりの中で経験してきました。その中には、わたしたちの人生を大きく変えるものさえあるのです。ラザロの死は、イエスがどんな存在であるかを示す事になりました。そしてそこで弟子たちを始めとして、ラザロの姉たちであるマルタとマリヤが、真の救い主なるイエス・キリストと出会うのです。

 わたしたちは、どんなイエス・キリストを信じているのでしょうか。部分的ではなく、全き信頼を持ってイエスを受け入れているでしょうか。わたしたち愚かな人間の為に、大切な命をも惜しまず捧げ、十字架にかかって下さり神により復活の勝利を与えられたイエスこそが、わたしたちの生命にとってかけがえのない存在となり、命の源となるのです。そのイエスにつながることによりわたしたちは、本当の意味で神と人を愛する事を知るのです。

 今、神から与えられている命をしっかりと受け止め、喜び・悲しみ・困難等のどんな中をも主イエスを信じて歩み、神と人とに助けられ、支えられながら生きてゆける事への感謝に満たされるようにと祈ります。「このことを信じるか」の問いかけに「はい、信じます。」と幼な子の様な素直さを持って従えたら幸いです。たとえ、信じられない弱い者であったとしても、主は時を備え続けていて下さるのです。
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