日本基督教団 西神戸教会月報
2003年10月号

                   
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの
日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
《ヨハネによる福音書12章7節》

 マリヤは、イエスの足に高価なナルドの香油を注ぎ、自らの大切な髪でその足をぬぐいました。マリヤにとって兄弟ラザロをよみがえらせてくださった主イエスヘの最大の捧げ物でありました。疑い嘆く者と共にいてくださり、涙を流し、愛してくださった方への精一杯の愛の表れであったのでしょう。

 ところが、その行為を見て、弟子のユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言いました。その言葉の裏には、貧しい人々のことではなく、自分の事しか考えていない姿があることが記されています。わたしたちの歩みの中にもこんなことが多々あるのではないでしょうか。人のことぱかり責めて、自分を守ろうとする。その真意を知られないように、尤もらしい事を語り、こじつけ、人の行為ぱかり責めるのです。そんな者の悪意をすべて知りつつ、その者に対してイエスは、敢えて責めるのではなく、大切なことを示して語りかけてくださるのです。それが上記の聖句です。

 イエスの基本姿勢の様に「この人のするままにさせておきなさい。」と語り、マリヤの行為の大切さを認め受け入れてくださっているのです。高価でもったいないと思えるもの(物・者)をも惜しまずイエスに捧げるマリヤの姿を、誰も批判など出来ないのです。わたしたちの中で、そこまでイエスに捧げる事の出来る人はいるでしょうか。捧げる事も出来ない人が、その使い道を「貧しい人々の為に」などと尤もらしい事を言うことは出来ないのです。わたしたちの陥りがちな事は、「いったい自分はとうなのか?」という事を問う事もしないで、人の行いぱかりが気になるのです。そして出来ない自らを守るために人の行為を責めるのです。ここで、イエスは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と語ります。マリヤは、イエスに対して今しか出来ない大切な事を行ったのだから、これからまだ行える貧しい人々への配慮は、あなたがたがすれぱ良いではないかと語りかけられます。自分では、何もしないで人にばかり尤もらしい事を語っても、何の正当性もありません。人に語る前に、まず自分に語りかける事が大切ではないでしょうか。そのことにより、自らの事に気づきより良く生きる道へと進んで行き、神と人と共に歩む大切な生命の輝きが与えられるのです。主イエスは、そんな弱く小さい者と共に歩み続けていてくださるのです。
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