日本基督教団 西神戸教会月報
2003年12月号
クリスマスのこの季節、たくさんの人と出会い共に過ごせることを神様に感謝します。今年もクリスマスの礼拝を15回もさせてもらえれるとは、なんと恵まれた者なのでしょう。しかし、体力的にも自信はなく、信仰的にも弱く、知恵や知識においても乏しい者が最後まで用いられるか不安の中にいます。今の時点で何とか9回クリスマスの礼拝をして、残るは、メインとなる教会のクリスマスと24日夜の燭火礼拝を含めて6回です。わたしは、ある日クリスマスメッセージを考えながら、今責任を持っている幼稚園の壁面にある大きな電飾を眺めていた時、「何でこんなことをしているのか」という素朴な疑問とその答えを探している自分に気づきました。自分が責任を持って飾っていながら、なんでそんな事考えているのかと不思議に思われるかも知れませんが、自分なりに納得しないと、クリスマスの真の喜びを知らずにいる世の人々が、飾りたてる派手で華やかな飾りと同じになってしまうからです。わたしは、以前から、サンタクロースもクリスマスの様々なイベントも装飾も否定する気はありせんでした。ですが、それらがただの浪費と自分の快楽だけである物であるなら、必要ないと思っています。しかし、それらが、神の愛を運び伝える役目をしているなら、大切にしなくてはいけません。わたしたちが間違ってはいけないのは、それらはクリスマスでは無く、あくまでもクリスマスの出来事により生み出されてきた物に過ぎないのです。クリスマスを喜ぶ現れであり、クリスマスを伝える物に過ぎないのです。そのことをわきまえないと、いつの間にかクリスマスの主役が、馬小屋の飼い葉桶に寝かせてあった神の子イエスから、ほかの物になってしまうのです。わたしは、幼稚園の大きな壁面の電飾が、様々な悲しみや困難や寂しさの中にある人にもクリスマスが訪れる事を伝える物として役に立てばと願っています。 クリスマスは、神の愛が具体的に示された日です。神が最も大切な独り子を惜しまず愚かな人間の為に与えてくださったのです。それもわたしたちの生活のただ中に独り子は来てくださり、共に生きる苦しみを味わい、痛みを分かち愛し続けてくださったのです。神の愛を与えられたわたしたちは、受けるだけで何もせず、そのままで良いのでしょうか。愛されたゆえに愛する者へ変えられてゆくのです。それが必要な所に必要な物をもたらすサンタクロースではないでしょうか。神の愛が人間の世界に生まれた日を大切に、他の人と共に豊かな恵みの時を過ごし、物によってでは無く、愛によって喜べるクリスマスとなりますことを祈ります。 |
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