日本基督教団 西神戸教会月報
2004年03月号

                   
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、
子に栄光を与えてください。」
《ヨハネによる福音書17章1節》

 イエスは、十字架を前にした弟子たちへの最後の説教を終えた後、祈りました。弟子たちがこれからイエスに何が起こるか理解していない中、自らの歩みをしっかり見つめて、神に向かいました。「時が来ました。」とは、どんな時なのでしょうか。栄光を受ける時ではありますが、その栄光は十字架への歩みなのです。神の定めた時を受け入れ、神のご計画と御心に従うのです。「栄光」とはわたしたちが考えている様なこの世的なものではなく、苦しみ・悲しみ・痛みを伴うものなのです。なぜなら、復活の出来事は、十字架の死によって初めて訪れる出来事だからです。主イエスの祈りは、その第一歩の十字架へ向かうための祈りなのです。本来、避けたい・逃げたいような苦しみ・悲しみ・蔑み・痛みの中を歩むためには、神への祈りしかないのです。それは、神の子イエスといえども不安や恐れを持つものであったのです。わたしたちは、イエスであるならどんなことでも大丈夫と思ってしまいがちですが、決してそんな簡単なものではないのです。それだけ重い十字架をイエスは背負って歩き、十字架の上で苦しみぬいて最後を迎えたのです。その苦しみをわたしたちは、どれだけ理解しているでしょうか。

 受難節をわたしたちは、どのように過ごしているのでしょうか。十字架で流されたイエスの血と裂かれた肉を本当に理解しているでしょうか。教会はどこを向いて、何に向かって歩んでいるのでしょうか。教会が大切にすべき愛と命より、他の栄光を求めてはいないでしょうか。求めるものを間違えてしまう時、神の御心から遠く離れたもの(者・物)に心を尽くしてしまい道に迷ってしまうのです。わたしたちに神から与えられているかけがえのない、ただ一度しかない命の営みを神と人と共になしていく時、本当の生命の意味を知るのです。

 人は、教会に聖なるもの(物・者)や理想や完全を求めがちですが、教会も多くの過ちを犯し続けているのです。その現実をしっかりと見つめ、主の十字架と出会う時、歩むべき道と祈りの大切さと神による恵みの豊かさを知ることができるのです。わたしは、自らのいたらなさを知れぱ知るほど、神の愛と恵みの豊かさ、神から与えられる力のすぱらしさに出会います。わたしにとって「栄光」とは、弱さや欠けによって与えられる神の豊かさです。痛みや困難を伴いつつも、神が共にいてくださる幸いを得ることのできる時なのです。
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