日本基督教団 西神戸教会月報
2004年04月号

                   
「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」
《ヨハネによる福音書20章19節》

 イエスは、神の御心に従って十字架につけられ、死の闇に葬られて、新しい生命が与えられました。神の愛は、私たちの思いをはるかに越えて与えられているのです。人の思いや経験では知ることのできない事をなされるのです。イエスの復活は、からっぽ(空虚)の墓から始まりました。誰ひとり理解することのできない出来事が、復活の初めの現実でした。その後、イエス自らが、弟子たちの前に姿を現すことによって人々は、信じる者とされたのです。

  イエスは、人に裏切られても愛し続けてくださいました。復活のイエス・キリストは、主の十字架の後にユダヤ人を恐れ、この世を恐れ、閉じこもっていた弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったのです。しかも、十字架の傷の痛々しい手とわき腹を示されたのです。恐れ、怯えていた弟子たちが喜びに満たされたのです。イエスを見捨て裏切った者に心を留めてくださり、再び信じて神の働きをなすものとしてくださったのです。それを担う資格も力も無い者を神は用いてくださるのです。弟子たちにとってこれほどうれしい事はないでしょう。心に重くのしかかっていた裏切りをも許し、「平和があるように」と語りかけてもらえた事が彼らを生かすものとなったのです。

  わたしたちは、日々の歩みの中で現実にふさがれ、神の現実から離れてしまっているのではないでしょうか。世を生きるということは、多かれ少なかれ苦しみを負う事です。しかも、その苦しみは、神から与えられるのではなく、人から与えられる事が多いのです。その苦しみの中で神は共にいてくださり、支え守っていてくださっているにもかかわらず、人に躓き神から離れてしまうのです。わたしたちに大切な事は、神の現実と人の現実を混同してしまわない事です。どんなに人が信じられず、人に陥れられようとそこにある神の現実をしっかりと見つめていくことが大切なのです。どんなに人が愚かで罪に満ちているかをその現実の中で知り、自分もその人と大差ない同じ人間に過ぎないことに気づく時、神によって生きる事がどれだけ大切なことなのかを思い知らされます。イエスを棕櫚の葉を振り、歓迎して迎え入れたにもかかわらず、すぐに自分の都合で「十字架につけろ」と叫ぶものとなった人のようであり、権力や権威を失う事を恐れイエスを十字架につけた人のようであり、イエスにどこまでもついて行くと言いながらも十字架を見て逃げて行った弟子のようでもあるのです。そんな人を愛し生かしてくださる神に感謝し、生かされている事を大切に人と神を愛して歩みたいものです。
BACK NEXT TOP HOME